チベットへの旅先でマラリアを発症したというlalalacozyさんの顛末がすごすぎる

嘘みたいな話なんだけど。2回目のマラリアを中国のゴルムドって僻地で発症した時病院で「自己診断マラリアですぅ」っても英語が通じず死にそうになった。英語がわかる中国人にマラリアは中国語で「疟疾(ユェジィ)」というということを聞き出した頃には、体重は5キロ落ちほぼ歩けない状態。
2011-11-17 18:50:21
街で一番大きい病因に行ったらもう野戦病院みたいで、だくだく血を流してる人とかいて、自分も死にそうなんだけどとても順番を先になんていいだせず。で、やっと診察してもらったら「急性腸炎だよ」「え?マラリアですよ」医者は急性腸炎とノートに書いた。見れば、自分の前の人も全員急性腸炎の診断。
2011-11-17 18:53:35
で、とにかく注射しましょうといい医者は紙に「青霉素」と書いた。わからない。別室で尻にまず一本打たれた。衝撃が走る。今迄体験したことのないショック。あのちょっと…というところにもう一本ブスっと。その瞬間世界は廻り、自分は昏倒した。付き添いの友人は「死んだ」と思ったらしい。
2011-11-17 18:56:32
コントのようにバタッと後ろに倒れたのだが、幸い意識はあった。意識はあったが手も足も動かない。身体が丸太になった感じ。感覚もない。首も動かないが、辛うじて瞼と口は動いた。自分がコントロールできるのが瞼と口だけって物凄く恐ろしかった。硬直した棒切れのままベッドに運ばれた。
2011-11-17 18:59:38
まぁ、それはペニシリンのショック状態だと後で知るのだが、あの時ワタシを見て馬鹿笑いしてた看護婦たちを絶対忘れない。狼狽えている友人に、覚悟してハッキリ言った。「たぶん死ぬので、家族に連絡してくれないか」と。生涯一度だけ、本当に死ぬんだと思った。
2011-11-17 19:02:08
解凍という表現がビッタリで、次第に末端から神経が通い始めた。全身が硬直から解けて歩けるようになるのに2時間ほどかかった。医者からの謝罪とか気遣いなんてものは全くなく、這々の体で病院を後にする。ちなみに、日本のペニシリンでショック状態になった事はない。それだけ強い薬だった。
2011-11-17 19:05:45
医者は整腸剤しかくれなかったので、手持ちの抗生物質とバファリンを自己処方し始めたが、どんどん衰弱して買い物も両替も行けない。ドミトリーの友人たちが飲み物や食べ物を差し入れてくれた。何とか公衆電話から(当時は携帯なんてない)保険会社に電話したが、なんとか香港まで行ってくれと。
2011-11-17 19:10:07
マラリアは高熱と平熱を繰り返す。高熱の時は平気で40度を超えて一気に消耗する。体温計で41度の表示を見たとき、もう脳細胞半分死んだなと思った。何日かおきに付き添われて病院には行ったが、医者は断じてマラリアを認めようとしない。「ここは高地だからマラリアはない」というのが公式見解。
2011-11-17 19:12:50
ドミトリーの友人が一人一人去ってゆく。チベットの冬は早い。陸路で(当時鉄道は建設中)入るにはタイムリミットがある。衰弱するワタシが気にはなっても、それぞれの計画や資金、ビザの関係で去るしかないのだ。急速に萎んだワタシはすすけてシワシワだった。もう何も食べられない。
2011-11-17 19:15:38
二週間が過ぎた頃、病院から呼び出し。一人では歩くのもままならないのに、大病院の暗く冷たい階段をぐるぐる上がり大きな会議室に招かれた。パジャマに上着を羽織った風呂にも入れないままのワタシは、被告人のように会議室の入口に立たされ、四角く並べた机の向うにゆったり座る白衣に値踏みされる。
2011-11-17 19:19:48
中央の机にどっかり座った、院長だか理事長だかわからんエラいオッサンが「君どうしてもマラリアと言うのかね?」「はい。一度やってるからわかります。マラリアです」「サインしたまえ。君の責任でマラリアの薬をだそうと会議で決まった」電撃が走った。薬が欲しい一心で、震えながらサインする。
2011-11-17 19:22:50
書類を薬局に出し「解放軍」の箱と、赤と黄色の毒々しいカプセルを手に入れた。泣きそうだった。ちなみに、初期段階で日本製の抗マラリア薬は飲んでいます。でも量もなかったし効かなかった。それが、なんということでしょう。解放軍の薬を飲んだ半時後に、自分はリュックを背負って走っていたんだ。
2011-11-17 19:26:25
ゴルムドにいては薬がもらえないと思っていたので、とにかくビザがあるうちに都市に出ようと決め「西寧」迄戻ることにしていた。でも、中国で汽車の切符を買うのはとても大変で、友人は自分のために2時間並び凄絶な闘いをして切符を買ってくれていたのだ。西寧へ!自分はBPを背負い駅に走った。
2011-11-17 19:30:34
何がいいたかったかというと、大陸の僻地で病気になってはいけないということ。保険に入ってても、保険屋は後で金をくれるだけ。蟻地獄状態からは自力で脱出するしかないってこと。持病と薬の現地語は覚えておくこと。注射器は持ち歩くこと。そして海外の薬は大抵すごく強いってこと。
2011-11-17 19:33:51
一泊二日だかかかって大都市・西寧へ。招待所で静養中、よく幻覚を見た。それが大陸の薬のせいなのか、飲み過ぎたバファリンと抗生物質の後遺症なのかはわからない。とにかくある程度体力を戻してから再度ゴルムドへ。そして陸路チベットへ。自分にとってゴルムドは死に一番近い街である。おしまい。
2011-11-17 19:39:01
でね。自分はインドでもずいぶんお医者の世話になってるんだけど、中国のような思いをしたことがない。物凄い僻地でも、インドのお医者さんは優秀だった。道具は酷かったけどね。まぁ、今の中国は違うだろうけどね。違っていておくれよ。
2011-11-17 19:43:43
一連のマラリアツイートに補足すると、中国内陸部から脱出するには直接飛ぶ航空券をもってない限りどこ行くにも物凄く時間がかかるってことなんです。突然移動しようにも、飛行機も汽車もまず切符が取れなくて。唯一の可能性はバスなんだけどなにせ大陸は広いし、大雨で道がなくなったり。陸の孤島に。
2011-11-18 01:48:57
当時の中国のビザは1ヶ月ずつの延長で最大3ヶ月。もし延長を断られたり(よくあること)何らかのトラブル(よくあること)で有効期限内に脱出できないと、牢屋にぶちこまれても文句いえません。まぁ大抵は何とかなるんだけど。2週間あればどこでも出られると普通思うじゃないですか。出来ないの。
2011-11-18 01:52:36
大陸とはよくいったもので、海のように陸が広いといったらいいのか。いけど進めど国境が近づかない中国。交通機関が整っていなかったので、内陸から国境までの道程は時間との闘いだった。1996年かな、確か。まだトイレに小川が流れてる頃の、中国辺境の思い出。
2011-11-18 01:58:08
でも、90年代はマシだった。80年代の中国大陸個人旅行者は…(笑)一時期旅行者が集まるとすぐ悪口大会、武勇伝の問わず語りが始まるってくらいまぁ悲惨だったと聞いてます。相対的にはアフリカのがずっと大変なんだろうけど、なにせ人数がいないので。集まって盛り上がるのは中国話だった。
2011-11-18 02:10:18
@lalalacozy そだね。それはそうと中国語でペニシリンってああ書くのね。初めて知ったw 確かにあれは青い霉を素に作った薬。日本ではそのまま外来語が定着してるけど、中国はちゃんと翻訳してるんだね。
2011-11-19 06:59:14
@norapen ワザワザ書いて注意促したワケだし、青の段階で気づくべきだったが、あの時どんな選択肢があったろうか。しかしマラリアが通じないのは想定外だった。マラリア翻訳する為に医学生探すのが大変だった。
2011-11-19 07:02:16
@lalalacozy 消耗しきってる状態で、青の字からペニシリンまで想像するのは無理。それにしても、医師がマラリアの症状を知らないことにビックリ。潮熱みたいな典型症状あるのに。発症している人が少なくて知らないとも思えないのよねぇ。
2011-11-19 07:08:37
@norapen 症例は初めて看たのかも。蚊がいなくても再発はあるって認識が欠けてた。平熱の時しか病院行ってないし、問診も短時間で中国語。ワシの中国語がもうダメダメだし。まさか病院で英語通じないとはね。
2011-11-19 07:13:29