平川先生に、リスクコミュニケーションについて聞いてみました。
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kei_sadalsuud
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@hirakawah ありがとうございました。先生が以前ツィートされていた、「リスクの受否の判断には、合理的な理由だけでなく、道理があるかどうか、も強く関係している。たとえ合理的には小さなリスクでも道理がなければ拒否するのが人間」という言葉を思い出しました。
2011-11-18 01:25:37
そうそう、それです。RT @kei_sadalsuud: @自分 先生が以前ツィートされていた、「リスクの受否の判断には、合理的な理由だけでなく、道理があるかどうか、も強く関係している。たとえ合理的には小さなリスクでも道理がなければ拒否するのが人間」という言葉を思い出しました。
2011-11-18 01:29:51
「問い」には答えが出るものと、出ないものがある。後者は、問いの立て方の吟味も含めて考え続け議論することに意味がある。しかし「意味のある問いとは解答可能な問いだ」として、後者を無意味と切り捨てる分野もある。異分野間(たとえば人文思想系と工学系)の対話の不成立具合の大きな一因。
2011-11-18 04:46:50
(続)このことは、ここ数日のあららさん周辺の議論の展開を見てもつくづく思うことであるが、昨日、職場でちょっと話題になった岩波『科学』11月号の鷲田清一さんの科学時評「トランスサイエンス時代の科学者の責任」が論じていた問題にも通じている。
2011-11-18 04:50:32
(続)科学時評で鷲田さんは、科学技術に関わる多くの問題を「コストと利点の比較」といった「専門家」たちのフレームに落とし込むことで、「責任」という概念にも直結する重大な倫理的問いが隠されてしまう「思考の欠如」という問題を指摘している。
2011-11-18 04:53:51
(続)更には(自らもかつて委員として関わったことのある)たとえばヒト受精胚の医療利用に関する「生命倫理の法的手続き化」にも、倫理的問いの抹消という弊害があることを指摘する。
2011-11-18 05:00:39
(続)つまり将来「人」になる可能性のあるものを、既に「人」であるものの救済に役立てることで「存在の値踏み」を行うこと、つまり人が別の人の存在価値を決定することを認めるということ。それに伴って然るべき咎の念、罪責感といったものが、倫理の法手続き化によって消えてしまうというわけだ。
2011-11-18 05:04:00
(続)たとえば先端医療技術者の内面で「このことで、失われゆくひとつの命が救われるのだからやむをえず」という苦渋の意識は次第に薄らぎ、「指針に謳われているのだから問題はない」となり、倫理について無感覚になっていく。
2011-11-18 05:06:42
(続)そうした問題を指摘したうえで、この時評の結論として鷲田さんは次のように論じる:専門家が「特殊な素人」でしかありえなくなった現代、科学者には、他領域からの意見を専門外のものとしたり、専門や科学そのものを超える複合的問題を「非科学的」と見なして退けるのではなく・・・
2011-11-18 05:12:07
(続)状況の全体に目配りしつつそのつどの状況のなかで何がいちばん大事かを見通せること、複合的な要因によって発生している問題の解決のために、一般人に議論を開き、手厚い対話と取り組みの設計ができるような、そういう知的努力が求められるという。
2011-11-18 05:15:26
(続)こうした鷲田さんの結論そのものの妥当性は脇において置くとして、昨日職場での雑談でちょっと話題になったのは、この鷲田さんの「問題提起」と「結論」は、たとえば当の生物医学の研究者にとっては「問いと答え」に見えない可能性があるということ。
2011-11-18 05:18:47
(続)生命倫理の法手続き化の問題にしても、「法手続き化しないなら、倫理問題をどう解決するんだ」と問い返してくるだろうということ。しかし、根本的にはこの倫理の問いには「解決」なんかはないし、仮に解決を与えたとすればそれは問いを無視することでしかない、というのが人文的な見方。
2011-11-18 05:21:12
(続)また倫理の問いに対する議論を一般の人々に開くという鷲田さんの「結論」も、「倫理の法手続き化の代わりに何ができるか」という問いに対する「解決」とはみなされないだろう。少なくとも法手続き化と同様に倫理的重責を無化するタイプの解決を期待する人々には、とくにそうであろう。
2011-11-18 05:27:04
(続)しかし、「人々が選び決断することに委ねる」ということ、最終的には民主的代表の場である国会での多数決による合意という「擬制(フィション)」によって(解決ではなく)「決着させる」というのも、社会的には問題の解決法の一つである。
2011-11-18 05:29:35
(続)ようするに、何が意味のある「問い」であり、何がその「答え」や「解決」になるかは、分野によってまちまちであること、さらにはそもそも答えなど存在せず、抱え続け、痛み続け、考え続けることにこそ意味がある問いというものもあるということ。
2011-11-18 05:32:33
(続)その点まで互いに視野に入れないと異分野対話はしばしばクラッシュするということ。そんなことを、鷲田さんの科学時評、それとあららさん周辺の議論、とくに昨夜のこのツイートなんかから思った次第。http://t.co/1rLQG7WE (連ツイおわり。朝から失礼いたしました。)
2011-11-18 05:34:41早川先生からメンションをいただきました

@hirakawah @kei_sadalsuud 唐木さんは9月18日の東大哲学シンポでそれとは違うようにはっきり話しました。「リスク評価は科学(だけ)でやる。リスク管理は、科学 も 使う。科学はたくさんのなかのひとつにすぎない」 この立場に私はまったく賛同しました。
2011-11-18 05:36:31
@hirakawah @kei_sadalsuud リスク管理の前段階として、それとは独立したリスク評価が科学者間で自由に議論される必要があると考えます。それが、住民や行政官に漏れてもかまわないと考えます。閉鎖空間でやるのではなく、素通しが良い。
2011-11-18 05:39:29
@hirakawah @kei_sadalsuud 私のこの立場からいうと、住民も行政官も、そしてマスメディアも、リスク管理とは別にリスク評価なるものの存在を認めて、そこで喧々囂々の議論がなされることを認めてほしいとなります。つまり、(専門家の)シングルボイスを否定する立場です。
2011-11-18 05:41:36
@HayakawaYukio 「オープンかつ自由な科学者同士のリスク評価」、それゆえ「専門家のシングルボイスという理念を否定する」、どちらも私自身も賛成です。実際、リスク評価では「透明性」「公開性」はとても大事で、食品安全委員会でも会議公開に加え逐語議事録や資料も公開されてます。
2011-11-18 05:56:24
@HayakawaYukio ただし一点付け加えますと、リスク評価の前には、評価で何を議論するか、不確実性があったときに、証拠をどう判断するかなど、さまざまな「リスク評価方針」を、リスク管理者の責任のもと、科学者、利害関係者、一般市民と協議して決めるという段取りが必要とされます。
2011-11-18 05:59:46
@HayakawaYukio これは、食品安全の世界では、WHO/FAO合同のコーデックス委員会のマニュアルに定められたもので、日本でも農水・厚労・食安委がいちおう踏襲しています。
2011-11-18 06:01:49
@HayakawaYukio 要は、リスク評価は、リスク管理側の社会的・政治的力から独立でなければならないが、リスク管理にとって有用な結果をもたらすには、管理と評価の間で密接な相互作用が要るということで、米国のリスク行政では80年代から取っている考え方です。
2011-11-18 06:04:37