
長篠合戦の結果を左右した「鳥居強右衛門」~その虚像と実像(「どうする家康」21話で話題に)

鳥居強右衛門の生涯については、脚光を浴びるのが長篠の戦いにおける逸話のみでほとんど知られていない。諱を勝商と呼び、三河国宝飯郡内の生まれであったこと、奥平家に仕える足軽もしくは陪臣であったことが辛うじて知られているところである。 pic.twitter.com/ukuYchP18c
2023-06-04 19:13:10

武田方の長篠城を攻略した徳川家康は、城将として作手の奥平貞能の長男貞昌(後の信昌)を入れた。天正3年5月、武田勝頼は奥平信昌と500の兵が守る長篠城を包囲した。要害の地に築かれた長篠城の城兵は奮戦するものの、火矢によって兵糧庫が焼失し窮地に陥る。 pic.twitter.com/ChFGPfyVvP
2023-06-04 19:20:09

武田の包囲網を脱出し岡崎城へと援軍を要請する使者の任務に志願したのが、鳥居強右衛門であった。強右衛門は川に潜り山道を駆け、二日で岡崎に辿り着くと家康に援軍を要請する。この時、既に織田の援軍3万が岡崎に到着しており、徳川軍と併せて38000の軍勢が長篠に出立する手筈となっていた。 pic.twitter.com/gPNkWIbhbz
2023-06-04 19:24:55

強右衛門は長篠城に帰着し援軍到着を報せようとするが、武田兵に捕らえられてしまう。武田勝頼は強右衛門に「援軍は来ない」と虚偽の情報を伝えさせようとするが、承諾し城の前に引き立てられた強右衛門は「二、三日で援軍が来るから持ち堪えるよう」叫んだ。怒った勝頼は、強右衛門を磔に処した。 pic.twitter.com/m2Ci8VnvQP
2023-06-04 19:28:04

強右衛門の決死の報告で勇気づけられた奥平勢は奮い立ち、援軍が到着するまでの二日間を持ち堪えることに成功した。援軍の総大将であった織田信長も、鳥居強右衛門の自己犠牲と最期に感銘を受け、その忠義に報いるために立派な墓を建て菩提を弔ったという。 pic.twitter.com/1yyZBIo5eN
2023-06-04 19:32:15

軽輩であった鳥居強右衛門の家は、強右衛門の死を賭した忠義により奥平家中で厚遇された。子孫は強右衛門の通称を代々継承している。強右衛門勝商の子、鳥居信商は関ヶ原合戦後に安国寺恵瓊を捕縛する大功を立てている。後に忍藩の奥平松平家に仕え、家老も輩出する名家となった。
2023-06-04 19:38:38
#どうする家康 鳥居強右衛門さん 5/14夜に長篠城🏯を抜け出し、岡崎城で危急を訴えた後すぐ戻り、16日朝に雁峰山で狼煙を上げたそう。長篠城~岡崎城は片道約48km(現在)。往復で100km近くで、更には豊川を4km下ったという話も。どんだけ鉄人なんだって思いますよね。 長篠城を救った英雄に合掌🙏 pic.twitter.com/b6bfpVJ7go
2023-06-04 20:43:51

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関連

https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥居強右衛門
…武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。
この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった…

鳥居強右衛門の話、史料が無いわけではないものの半ば伝承みたいなもので、では信用に値しないのかと言われるとそういうわけでもないのが難しいですよね
2023-06-04 22:05:41
記録史料に基づいて評価するという歴史学の原則からいえば一次史料に出てこない怪しい話なのだけれども、同時代人の集合的記憶の中には確かに強右衛門の姿があるわけで、実証史学の枠組みだけではなかなか捉えづらい話だと思うなど
2023-06-04 22:17:27
@QmHSxpgqThzrxfk だからこそ創作で活きるのよ🥰 今週は脚本のクドさが出てたけど、元々強右衛門回は想定の範囲内だったんで👍
2023-06-04 22:12:35
強右衛門に関しては『信長公記』とか『家忠日記』に書かれてなくて、江戸期以降に書かれた史料にしかその名前と功績が記されとらんのですよ。「なら創作じゃねえのかい」となるところですが、彼の子孫がその功績で奥平家の家老になっとるんで、実際に何かはあったのがおもしろいところなのですよね twitter.com/tosho_zusho/st…
2023-06-04 21:09:39
金子拓先生の『鳥居強右衛門』、めちゃくちゃおもしろいので強烈におすすめであります。良書しかない「中世から近世へ」シリーズでは、個人的には柴先生の『徳川家康』の次に大好きで何度も読み返しております。 「歴史」が作られていく過程を垣間見ることができますぞ! #どうする家康 twitter.com/tosho_zusho/st…
2023-06-04 21:15:06
鳥居強右衛門の姿を今に伝える背旗は、「落合左平次指物」と言われるものです。かつて落合は武田家臣とされてきましたが、金子拓氏の調査により、子孫家蔵の文書、記録、そして鳥居強右衛門背旗の下絵などの発見、精査がなされ、徳川家臣だったことが判明しました。 #時代考証の呟き
2023-06-04 20:46:38
鳥居強右衛門が城に向かって叫んだと伝わる場所は、弾正曲輪の掘端。現地に立つと物凄く近いんですよ。 #時間考証の呟き
2023-06-04 20:42:50
@HIRAYAMAYUUKAIN 以前長篠城に行った時に鳥居強右衛門磔刑の場にも寄ったんですが、本当に目と鼻の先、豊川を挟んだ対岸にその場所があって、あぁ、この距離なら確かに声ははっきり聞こえるし、磔刑姿もよく見えただろうな…と思いました。
2023-06-04 21:17:58
@HIRAYAMAYUUKAIN 磔刑されたと伝わる場所を載せておきます。 pic.twitter.com/FPZLI5Br2k
2023-06-04 21:07:02


『家忠日記』は、天正5年からの部分が現存しています。なので、残念ながら天正3年の長篠合戦は記録されてません。あれば、どれだけのことがわかったことか。『三河物語』と『甫庵信長記』に記述があるので、当時から知られた人物だったことは間違いないです。 #時代考証の呟き twitter.com/tosho_zusho/st…
2023-06-05 00:23:06
強右衛門が城に向かって叫んだところと、磔にされた場所は違うのですよ。現在の磔跡の石碑は、かつては別の場所だったのですが、飯田線敷設に伴い現在地に移されています。 #時代考証の呟き twitter.com/44_the_hermit/…
2023-06-04 21:25:24
援軍が来るぞ、と叫んだのと磔を別けたのはいい演出と思いましたが、史実の裏付けがあったんですね! #どうする家康 twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
2023-06-04 21:30:12
長篠城籠城戦。一説によると家康はこの戦いの前に長篠城を鉄砲での防御に特化した城に大改修しており、また射程の長い鉄砲を大量に配備するなどして、火線によって武田軍を近づけない戦略を用いたとされます #どうする家康
2023-06-04 20:08:32