建築の批評性/建築(家)と社会(性)
- hkohno_abbr
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伊東さん:冨永さんがプレゼンの最後に、やっぱりバナキュラーなものが気持ちいいんだ、とおっしゃったけど、そこと建築がどう関わって解決していけるのか。坂本さんが話しておられたお話は、そこと40年戦ってきた痕跡を感じられました。
2010-05-15 17:22:25伊東さん:近代の建築は抽象的なプロセスを辿ってきた。建物で食べ物をぽろぽろこぼされるというような具体性を排除した中で、建築は設計されている。計画学や幾何学など、抽象的な中で空間が置き換えられている。これからは具体に回帰するのではと思いながらも、篠原さんから聞いた言葉も忘れられない
2010-05-15 17:27:19伊東:(せんだいと松本の仕事の違いに触れられて)住宅と公共建築では、批評の意味が違うのではないかと思っています。公共は何か変えなきゃいかん、という気持ちが個人的に強いのてわす。せんだいは市民からのリアクションが大きかったが、松本は少しうまくできなかった気がします。
2010-05-15 17:30:46仙台では始め色んな抵抗があったが建設期間中に徐々に理解者が増えていった。完成してみれば当初反対してた人々も楽しそうに使っている。ようやく社会に参加できた気がした。松本はそこが少し甘かった(そういう格闘が無かった)。補足> @siskw 伊東:・・(略)公共では何か変えなきゃいかん
2010-05-16 12:18:43坂本さん:建築はコンセプトがないとできないと思っています。一方で、生きられた家という考え方もある。片方だけじゃうまくいかなくて、その二つの拮抗点、せめぎあいの中に建築の面白さがある、ということを強く意識するようになりました。
2010-05-15 17:34:28冨永さん:伊東さんは幾何学を解体したいとおっしゃるけど、幾何学は近代建築うんぬん以前から人が良いと認められるものじゃないかな、と。それよりも、世界の中に環境を切り取ることが建築なのかと思います。世界の中に世界を構築していくことが、建築の前提としてある気がします。
2010-05-15 17:38:26伊東さん:だから建築家は社会にはいれないのではないか。人がいない時に一番魅力的な建築を作っている人はたくさんいる。けど、そもそも動物としてスタートした人間の感覚が、ミースのレスイズモアという言葉に代表されるように削られている。そのことに焦点を当ててフラクタルなどやっていけるでは。
2010-05-15 17:42:27冨永さん:幾何学というのは、大地の空間を切り取る本性であり、幾何学がそこから離れて一人歩きしていることが問題ではないか。その意味で伊東さんは、幾何学の本性に立ち戻ろうとしているように思うから、新しい幾何学だと思います。
2010-05-15 17:45:52伊東さん:仰られた通りで、こないだのセシルの展覧会はそれを強く表していた気がします。そこではある物を構築するシステムがあって、それを発見できる、幾何学に限らない何かを考えていけると信じています。
2010-05-15 17:48:12(住宅に批評性はないという伊東さんの発言の意図を聞かれて)伊東さん:モダニズムの住宅は、…言葉を選ばなければなりませんね…、モダニズムの住宅は、ある階級の知的水準を満足させるものだと思っていて、それにはすごい反発を覚えました。…
2010-05-15 17:52:20(会場からの意見をという声に、伊東さんが塚本さんからの意見を聞きたいという声を受けて)塚本さん:今回お三方のお話を聞いて、何か自分の中にある観念を出していけるのかが、建築を考えることに繋がると思います。お三方は、僕の考え方では第三世代の住宅をはっきりと前世代と分けて作られた→
2010-05-15 17:57:45塚本さん:トップランナーだと思っていて、これから2010年は第四世代の住宅を作っていかなければいけないと、私なんかは思っています。そしてそこでは批評性は無くならなず、新しい社会との関係を構築できるような批評性が立ち現われてくると思います。(要約不十分)
2010-05-15 18:01:50冨永さん:建築を開いていかなきゃいけないというけど、とにかく交流があればよい、というものではないだろう。私は内側に自立した世界をみたい。そしてその自立した世界と大地との関係を考えていけばいいのではないだろうか。
2010-05-15 18:05:59塚本さん:70年代は、個の内側と集団の外側が対立するためのデバイスとして建築が成立してしまった。しかし僕は、個の外側と集団の内側を結びつけるデバイスとしての役割を担えるのではないかと思っています。
2010-05-15 18:08:37岡河さん:たきさんが、「建築はエリートのものなんだ。このエリートが大衆のトップなんだから、しょうがないじゃないか」となった時にすごく恐怖を感じた。伊東さんはそれらに対して、より感覚的にわかり易いとこへと落とし込めた。70年代はその意味で建築を解放できたと考えてますが、→
2010-05-15 18:13:34岡河さん:→一方で、塚本さんがやられていることは建築かどうか曖昧になりすぎてしまっていて、それを建築でやる必要があるのか、という問題になるのではないかと。
2010-05-15 18:15:14奥山さん:…塚本さんは、個人的な感覚ではなく、多様であることが批評になりうるのではないかと仰られていたのだと思います。………そんなところで、藤岡先生からまとめを頂いて終わりたいと思います。
2010-05-15 18:19:26藤岡さん:建築史家なので、外野からみた感想を。伊東さんがスライドで最初に提示された、万博やスポーツと結びついたハッピーな世界。そりゃ嘘だろう、というところか、スタートされたのだと思います。私はモダニズムは「have to」の建築だと、何々しなければいけないというものだと→
2010-05-15 18:22:3280's後半から90's前半にかけて建築は(Have toでない方法を模索の結果)"Can Be” になった。それはある意味「なんでもあり」にもみえた (続き>) @siskw →このお三方はそれに疑問を抱かれていた。それはポストモダンの登場まで待たなければいけない訳ですが。…
2010-05-16 12:04:02こんにちわ。富永さんの「社会とは違う建築の世界」というのは、社会とコミットするというよりは閉じるということを連想させられるですが、あの発言についてどう思われていますか?RT @hkohno_abbr
2010-05-16 18:00:03難しいですよね。社会というより、現実との拮抗は、なんにしてもあるわけで、でも、その時に、社会(制度)や寄りかかるべき根拠とはなりえない都市のコンテクストに従属するのか、そうでなく(つづく) RT @masanobu0208 社会とコミットするというよりは閉じるということ
2010-05-16 18:03:07そうでなく、一旦そこから距離をとって別の世界を組み立てる、という話だとすれば、そちらのほうに共感します。閉じるというのは、別にコミットしないということを意味しないのでは。RT @masanobu0208
2010-05-16 18:06:36