攻撃衝動の集団的組織化とネルフ・ゼーレ・戦略自衛隊-バタイユ的解釈-
- Abraxas_Aeon
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それで思い出したけど、シュタイナーが悪の存在としてルシファーとアーリマンという象徴を使ったのは有名だけど、第三の悪の存在としてアスラ(阿修羅)存在についても語っている。でも、アスラって何なのかずっと謎だったけど、ふと思い出して更に謎が深まった。
2010-05-17 02:55:59そうなのですか、興味深いです。というか、シュタイナー的にも対極とは言えないのですが。ルシファーとアーリマンの二極、中庸がキリストという説明をしているときもありますので。 RT @Abraxas_Aeon 多分バタイユ的には対極じゃないのではと思います。
2010-05-17 03:00:43端的に言って「聖なる世界・時間」と「俗なる世界・時間」は前者が「暴力の世界・時間」であり後者が「労働および理性の世界・時間」を意味する。この呼び方はバタイユだけに固有の概念ではなく、非常に古い概念である。バタイユに言わせるとどっちも非合理的な語法による言葉。
2010-05-17 03:52:47無意識的・動物的・自然的というのと意識的・人間的・理性的というのを二項的に捉えるといいと思う。バタイユが『エロティシズム』の中で描き出すのはまず「労働の起源」であるが、これは動物的であることに対する嫌悪、自然に対する否の意識から生じた暴力禁止(俗)の世界ということになる。
2010-05-17 03:58:24「暴力を対象とする禁止」の発生から「俗なる世界[=労働・理性的・人間的な世界]」が生じるわけだが、これは暴力的なものを根絶するには及ばない。むしろ、禁止を破る違犯への欲望を高めさせる効果をもつ。「人間は決して暴力に対して徹底的な否を突きつけたことはなかった」『エロティシズム』
2010-05-17 04:15:40「犯されえない禁止は存在しない」。禁止はしばしば時効によって、あるいはある例外的な掟を設けることによって解除・消滅したりする。宗教においては動物犠牲(ないし人間犠牲!)、戦争の暴力などだ。バタイユは、限界を課さんとすること、それは欲望を増大せしめる秘訣なりと言ったサドを引用する。
2010-05-17 04:27:28.@Abraxas_Aeon おやすみなさい 起きて読んでいただければ 嬉しいです /バタイユの精確な要約 ありがとうございます 私の関心で、それが現代日本にどう当てはまるのか、はまらないのか、と 私見では、それは難しいのではないか、と (私の専門である印度にも 難だろう)と
2010-05-17 04:39:20オットーもそうだけど、「聖なるもの」論が あまりに欧州基督教にぴったりすぎて、「非日常性」が日常化している 現代日本とは どうつながるのやら… というところが気になって仕方ない /印度にも、なかなかそのままの転用はできないんだよなぁ、と思う
2010-05-17 04:41:06@mittsko 連絡ありがとうございます。「聖なるもの」がTL上で話題になる流れになったものですから、バタイユは外せないだろうと思いまして。仰っていることを拝読しますと、キリスト教と絡んでると思いますが、西洋の「聖と俗」の徹底さが、東洋とはまるで違うということですよね。
2010-05-17 06:34:46@mittsko ちなみにこの「聖なるもの」関連ツイートは、またネタのための下準備だったりします。後ほどトゥギャリますのでw。
2010-05-17 07:17:47.@Abraxas_Aeon トゥギャるの有り難いですww よろしくお願いしますね /聖俗区分自体は人類にほとんど普遍的だと思います その欧州基督教バージョンの特徴は、徹底の度合いにおいてではなく、
2010-05-17 09:49:21.@Abraxas_Aeon その区分の仕方そのものの独自性にあるのではないでしょうか 量ではなく質ということなんですが…
2010-05-17 09:53:52非西欧地域の宗教文化の分析においては、出来合いの理論(ほとんどが西欧基督教的)でなく、個別具体事例のデータ収集&解析が第一… と思って勉強しております 意識ある宗教学者は今みんなそうです
2010-05-17 10:01:19人間は俗なる世界・時間を永続させることができない。ガス抜きというと言い方がなんだが、禁止に対して違犯する欲望を迸らせる時間が出来する。この世界・時間が聖なる世界・時間というわけだが、これは俗なる世界を形成する以前へと還帰するわけではない。バタイユはそれを以下のように表現する。
2010-05-17 10:30:50人間が「ある意味で」動物性と一致した時から、私達は違犯の世界に入る。違犯は禁止を維持しながら、動物性と人間とのジンテーゼを形作り、かくて私達は崇高の世界(聖なる世界)に入るのである。[…]それは崇高と混じりあった自然の世界なのである。・・・
2010-05-17 10:41:15思考が運動の状態にある者には、この精神は容易に理解されるだろう。要するに、それは「動物性或いは自然の否定の中で形成され、次に自己自身を否定し、更に第二の否定の中で自己を超越して、もはや最初に否定したものには二度と戻れなくなった人間の世界」なのである。『エロティシズム』
2010-05-17 10:43:58禁止に対する違犯からの聖なる世界・時間は、単に俗なる世界からその世界を形成した以前の状態へと還帰するのではなく、人間とのジンテーゼを形作る。この「聖なる世界・時間」においては、他の動物になくて、人間に特有のもの、即ち暴力、残酷、犠牲、エロティシズムなどの「工夫」の技術がある。
2010-05-17 10:51:45ここでバタイユのいう「死」についての考察を取り上げておく。彼は我々人間にとって「死」とはまず第一に「死についての意識」だと述べている。これは我々個人の主体が死とは無縁であり、所有不可能ものであり、永久に未知なる客体としてあり続ける〈非-知〉の戦慄の対象であるという事が関っている。
2010-05-17 11:11:24移動中なう 「聖なるもの、非日常性、神話」みたいな勉強会、できないだろうか… 独りで勉強するのが もったいない気がしてきた
2010-05-17 13:33:04