- sakaki_koheita
- 3282
- 16
- 0
- 0
ええとご存じない方も多いと思いますが。私は榊原康政の三男です。兄がふたり、姉がふたりおります。末子ですが色々あって家督相続するはめになりました……
2011-11-22 22:05:17長兄は大須賀に養子に出ており、次兄は20で亡くなってしまいました。すぐ後に父も亡くなり……私は16で館林10万石を継ぐことになったのです。……しかし兄が継ぐものとばかり思っていたので、本当にもう。大変でした。色々と。
2011-11-22 22:11:04次兄が亡くなるまで、家督など考えたこともなかったのですが……大御所様に「鷹が鳶を産んだ」などと言われてしまいまして。さすがにちょっと落ち込みました。確かに兄が家を継いでいたら、もっと違ったのだろうなぁと思います。
2011-11-22 22:48:17@tukiyama1542 仕方がないのです、私も父もそんなつもりではなかったんですから。父の残してくれた家臣が有能でしたので、藩政はなんとかなりましたけれどね。
2011-11-22 22:54:38@tukiyama1542 正直に言うと、徳川四天王の息子という立場は、私には重かったですね。本多中務殿や井伊掃部殿、酒井左衛門尉殿に比べると……
2011-11-22 23:01:29私は兄や姉達とは母が違います。他の兄弟は全て義母上の……正室の子なのですけどね。なんだかもうそれだけで形見が狭い感じになりそうですが、父は私を他の兄弟と区別なく育ててくれました。父自身も、叔父とは異母兄弟だと言っておられました。
2011-11-22 23:31:28私の母は父の側室の花房氏ですが、私が藩主になってからは館林城の八幡郭に住まわれたので、八幡の方と呼ばれておりました。八幡様は戦の神、女性にはちと物々しい名ですね。
2011-11-22 23:41:19それから私の奥は、加藤肥後守清正殿の娘、あま姫です。こちらでは古屋と呼んでおりました。古屋が私のもとに嫁いできた時はまだ9歳だったのですよ。
2011-11-22 23:48:32古屋はとても愛らしい姫君でしたね。輿入れの行列はとても壮麗で。幼くして肥後から遠く離れて嫁いで、どんなにか心細かったでしょうに。
2011-11-22 23:53:02古屋との間に子を残してやれなかったことは残念なことでした。代わりに……私が死んだ後、側室が産んだ子の平十郎を養育してくれたのです。実子でもなく、館林藩を継ぐこともなかった我が子を。古屋と私は……いい夫婦だったでしょうか? 彼女がそう思ってくれていたらいいのですけどね。
2011-11-22 23:59:37!!!!なんと!!!!あま姫は元気かのぅ??(;▽;) RT @sakaki_koheita: こんばんは、義父上。小十郎にございます。
2011-11-23 00:29:26@sakaki_koheita そうか、それは良かった…!!。゚(゚´Д`)゚。夫婦仲良くしておるだろうか?ワシは心配で心配で…!!
2011-11-23 00:32:09@kiyomasa_k 姫は幼いうちにこちらに来てしまいましたから、ご心配でしょうが、大事なくすごしておりますよ。ご安心ください。
2011-11-23 00:34:26@sakaki_koheita そうか…それは良かった…!!命ある限り、夫婦仲睦まじく過ごすように。゚(゚´Д`)゚。昨日は「良い夫婦の日」だったようだし!(´∀`)
2011-11-23 00:43:53@kiyomasa_k ええ、時間はぎりぎりでしたが、古屋の話ができて良かったです。良い夫婦であるように精進いたします。
2011-11-23 00:46:40ふたりの姉の嫁ぎ先が、酒井雅楽助忠世殿と、池田武蔵守利隆殿ですから、そちらのお二方も私の義理の兄弟ですね。ちょっとすごい顔ぶれです。恐縮してしまう。
2011-11-23 00:56:51@sakaki_koheita ワシらの時代はいろんなところと繋がっておるからなぁ(´∀`)まぁ、肩の力を抜いて、深呼吸!
2011-11-23 01:03:15