ワシーリー・グロスマンの『人生と運命』とその周辺

みすずのPR誌に寄せたワシーリー・グロスマン『人生と運命』の書評 「二つの全体主義に抗して」:①http://p.twipple.jp/5PL92http://p.twipple.jp/5K4SX 【関連まとめ】「ホロコースト否定論と『黒書』の意義」(http://togetter.com/li/635910
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直立演人 @royterek

来年一月から上・中・下巻がみすずより順次刊行される予定のワシーリー・グロスマン『人生と運命』の二巻目をやっと読み終える。分量にしてざっと900頁。とてつもない小説。フルシチョフ時代に密告で原稿がタイプライターもろともにKGBに「逮捕」され、作者の生前に発表されることはなかった。

2011-11-18 00:26:55
直立演人 @royterek

原稿を没収されたワシーリー・グロスマンは、すぐさまフルシチョフに原稿を返すように嘆願書をしたためたが、原稿は戻らず、彼はイデオロギー担当書記スースロフに呼び出された。スースロフ曰く:「この小説は原子爆弾よりも危険である」「この小説がこの国で200年以内に発表される見込みはない」

2011-11-18 00:22:27
直立演人 @royterek

ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(上・中・下、みすず書房より来年一月以降に刊行予定)を読了。全三巻で約1400頁。第二次世界大戦の行方を決した史上最大の陸上戦、スターリングラード攻防戦を中心に、全体主義体制下を生きた人々の運命を壮大なスケールで綴った20世紀の自画像。

2011-11-20 15:23:13
直立演人 @royterek

ナポレオン戦争の時代を描いたトルストイの『戦争と平和』を意識して書かれたグロスマンの『人生と運命』は20世紀の「大祖国戦争」の一大叙事詩である。これが20世紀の自画像であるのは、数千万という人々の死ととともに人類全体の運命を決した全体主義体制の精緻な解剖絵巻ともなっているからだ。

2011-11-20 16:02:28
直立演人 @royterek

1960年に完成した『人生と運命』は密告によりソ連当局に没収された。だが、原稿のマイクロフィルムが西側に密かに持ち出され、1980年にスイスで仏語版が、86年には英語版が出版された。作家の故郷であるソビエト・ロシアで刊行されたのはようやく1988年。ソ連崩壊のわずか3年前だった。

2011-11-20 16:08:48
直立演人 @royterek

『人生と運命』の「西側」での評判には目を見張るものがある。たとえば、哲学者のエマニュエル・レヴィナスは最も影響の受けた20世紀の小説として挙げ、『ル・モンド』は「20世紀で最も偉大なロシア小説」と評し、アメリカの歴史家トニー・ジャットは「20世紀ヨーロッパの10冊」に選んでいる。

2011-11-20 16:18:22
直立演人 @royterek

しかし、なぜこれほどまでの小説が日本ではこれまで出版されることがなかったのだろうか。その理由の一つとして、西側で出版された1980年という微妙な時期に関係があるだろう。日本のロシア文学受容には目を見張るものがあるが、80年代から90年代までのバブル期には最も読まれなくなっていた。

2011-11-20 16:23:24
直立演人 @royterek

もうひとつの間接的な理由として、『人生と運命』のロシア(ソ連)国内での微妙な評価軸とも関係しているように思われる。この小説を一読すれば、その中心的テーマの一つが、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺だけでなく、ソ連社会における国家主導及び草の根の反ユダヤ主義にあることは明白である。

2011-11-20 16:28:17
直立演人 @royterek

ソ連体制下にあって「ユダヤ人問題」は最大のタブーの一つであり、ホロコーストの悲劇がそれに相応しい扱いを受けることはなかった。独ソ戦ではユダヤ人だけが苦しんだわけではない、それゆえ、ホロコーストの悲劇をことさらに強調するのはブルジョア民族主義史観に他ならない、というのが理由である。

2011-11-20 16:39:43
直立演人 @royterek

ソ連崩壊後の状況はさほど変わらない。ユダヤ人以外の大半のロシア人にとって、ホロコーストの悲性は他人事でしかない。それどころか、一部の愛国的ロシア人にとって、ロシア正教文化の破壊、農業集団化と大飢饉、スターリンの粛清といった悲劇を生みだしたロシア革命はユダヤ人の陰謀と解釈される。

2011-11-20 16:46:02
直立演人 @royterek

そうした理由で、グロスマンの『人生と運命』は今日のロシアでは高く評価されることがないどころか、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』のように誰にでも読まれるような類の小説ですらない。グロスマンがチェーホフやトルストイのようにロシアの「国民的作家」になることは後にも先にもないだろう。

2011-11-20 16:49:38
直立演人 @royterek

ペレストロイカ以降の自由化されたロシア文学市場では、それまで禁じられていたロシア小説が雪崩のごとく開放された。そうした状況で日本語に訳されてきたのは、今日のロシアでの評価が不動のものとなっているような作品に限られてきたため、『人生と運命』を日本のロシア文学者が訳す余地はなかった。

2011-11-20 16:53:37
直立演人 @royterek

来年一月以降に刊行される予定の『人生と運命』を翻訳したのは、日本のロシア文学界とは無縁だった無名の個人である。この方は、サラリーマンとして仕事をしながらロシア語をこつこつ勉強されてきた方だ。定年退職をされて時間ができたのを機に、この小説を一気呵成に翻訳されたのだという。

2011-11-20 16:55:45
直立演人 @royterek

ロシア留学中に『人生と運命』を一年間かけて読んで以来、この小説を訳したいと思い続けて15年以上が経過した。だが原文で900頁にもなる浩瀚な長編小説を翻訳する余裕もエネルギーもなかった。自分が訳せなかったのは悔やまれるが、翻訳者の方の意思と努力と成果には心から労いの言葉を送りたい。

2011-11-20 17:01:32
直立演人 @royterek

「われわれが所有する資料のすべては、何らかの奇蹟でからくも死を免れた人々による報告である。だが、われわれは大地に横たわり自ら語ることのできない人々の代わりに語る責任も負っている。われわれが光を当てなければならないのは、→

2011-11-24 00:48:49
直立演人 @royterek

→バービー・ヤールに連れて行かれた99%の人たちの身に起きたことであって、バービー・ヤールから逃れた5人に起きたことではない。」(ソ連領内におけるユダヤ人虐殺の記録『黒書』(Чёрная Книга)の編集方針をめぐってワシーリー・グロスマンがイリヤ・エレンブルクに語った言葉)

2011-11-24 00:52:52
直立演人 @royterek

独ソ戦時代におけるナチズムとソ連という二つの全体主義体制下の悲劇を描いたワシーリー・グロスマンの『人生と運命』は、20世紀という「極端な時代」の息吹を伝える貴重な記録にして比類なき記念碑である。しかしこの書は同時に、ナチスに虐殺された亡き母に捧げられた個人的な追悼のうたでもある。

2011-11-24 01:14:12
直立演人 @royterek

グロスマンの母エカテリーナ・サヴェリエヴナ・グロスマンは、作家の生まれ故郷であるウクライナのベルディーチェフに戦前から暮らしていた。彼女は、独ソ戦の勃発後、ソ連当局の無配慮などから疎開に間に合わなかった約2万人のユダヤ人のうちの一人だった。

2011-11-24 01:21:47
直立演人 @royterek

ベルディーチェフは、1941年6月22日の「バルバロッサ作戦」の開始からわずか2週間後の7月7日にナチス・ドイツに占領された。町に残されたユダヤ人は直ちにゲットーに追い立てられ無権利状態を強いられ、9月15日未明、郊外の空港に連行され、巨大な穴を掘らされた後、その場で銃殺された。

2011-11-24 01:26:19
直立演人 @royterek

「この日、ヨーロッパのユダヤ人の虐殺は始まった。それはベルディーチェフで始まったのだ。」(ナウム・エッペルフェルド:ベルディーチェフのゲットーからの奇跡的な生還者の一人)

2011-11-24 01:29:34
直立演人 @royterek

ワシーリー・グロスマンについて今のところ日本語で読める最も情報量の多い本は、『赤軍記者グロースマン―独ソ戦取材ノート1941-45』(A・ビーヴァー/L・ヴィノグラードヴァ 編/川上洸訳、白水社) 代表作『人生と運命』でなく従軍日記が英語からの重訳として先に出版される異常事態。

2011-11-24 01:41:03
直立演人 @royterek

ただし、グロスマンのもう一つの代表作である『万物は流転する・・・』は1972年に刊行された既訳がある。現代ロシヤ抵抗文集6『万物は流転する・・・』(ヴァシーリー・グロースマン、中田甫訳、剄草書房) 密告を主題としたこの作品も作者の生前にソ連国内で日の目を見ることはなかった。

2011-11-24 01:46:14
直立演人 @royterek

『万物は流転する・・・』のもう一つの主題は、1930年代のウクライナを襲った集団化の嵐と人為的に引き起こされた大飢饉の問題である。スターリン時代のソ連が引き起こした未曾有の人道的犯罪を暴き、その源をレーニンにまで遡って告発したこの書は、『人生と運命』以上に過激な書物とさえ言える。

2011-11-24 01:53:17
直立演人 @royterek

日本ではナチズムの犯罪の影に隠れてしまっている印象があるが、スターリンの犯罪は、その規模においてナチズムをはるかに凌駕している。農業集団化の際に「富農撲滅」と称して約100万人が殲滅させられ、集団化に続いて人為的に引き起こされた大飢饉で最大1000万人近くの人々が餓死させられた。

2011-11-24 01:57:17
直立演人 @royterek

さらに、1937年以降の大粛清では、「1997年の文書の公開により少なくとも約1260万人が殺されたことを現政府のロシアが公式に認めた。」(wikipedia) スターリンは、約25年近くにわたるその治世のあいだに、およそ2000万人の自国民を殺した計算になる。

2011-11-24 01:58:57