見ず知らずの他者に侮蔑的な言葉を投げつける行為の背景について

「お前んちのガキの歌をバスの中で聞いて可愛い!なんて思うのはお前だけだということが。頼む、親子で死んでくれ」http://togetter.com/li/217060 に関しての@fdesaussurerb35さんのつぶやきまとめ
8
Saussure @mamiyac330

見ず知らずの他者に存在を否定するかのような侮蔑的言動をされる方々についてのTLがあった。嫌なものだな、と思いつつ、何故だろうと考えていた。今日、買い物に出掛けた先で父親らしき男が小学校に上がる位の男の子に存在を否定する侮蔑的な言葉を発しているのを聞いて背筋が凍りついた。

2011-11-23 15:56:00
Saussure @mamiyac330

他者の存在を否定するかのような侮蔑的言動は様々な迂回路を巡り遅延し別の形で発言者に差し戻される。ある者は健康を損ね、ある者は経済的に困窮し、あるいは社会的支援を喪う。そのもたらされた結果の原因が過去に他者を損ねた言動であることに気付いた時は既に手遅れである。

2011-11-23 16:06:32
Saussure @mamiyac330

その父親は子供に侮蔑的な言葉を投げつけることで、将来的に自分の子供から侮蔑的な言葉を投げ付けられる可能性を担保し、将来得られるはずの支援を減衰していることに気付いていない。更に自分の子供が他者に侮蔑的な言葉を投げつけることで社会的関係を損ねる可能性があることを配慮していない。

2011-11-23 16:18:28
Saussure @mamiyac330

身近な人にこそ丁寧で配慮された暖かな言葉を贈らなければならない。何故なら人は何時でも元気で居られる訳ではないし、何時かは年老いる。あるいは経済的に困窮することもあるから。多分、その父親はその様な基本的な想像力に欠けておられるのだろう。残念なことである。

2011-11-23 16:25:43
Saussure @mamiyac330

見ず知らずの他者に侮蔑的な言葉を投げつける行為の背景について。事例のバス車内で騒ぐ子供に暴言を口にされた方が、その行為の正統性を主張する根拠の一つは他者が不愉快になる行為は許さないという信憑であり、自分が不愉快になる行為は許されないとする拡大解釈された思い込みにあると考える。

2011-11-24 06:10:34
Saussure @mamiyac330

何故、不愉快さは正統性を主張する根拠たり得るのか?残念ながらそれは弱者に配慮することは政治的に正しく、アファーマティブアクションを要求することは弱者の正統な権利であるという信念が常識として数えられるようになったからである。その結果、弱者という優位な地位を巡る争奪戦が起きている。

2011-11-24 06:22:13
Saussure @mamiyac330

社会的弱者の権利を主張する運動、障害者、フェミニズム、同和運動等はそれ自体根拠に乏しい差別を転倒する限りに於いて政治的に無謬である。社会的弱者の不愉快の表明は正統的を担保される。しかしここで理屈が逆転する。不愉快さを表面することが弱者を証し、政治的無謬を担保し始める。

2011-11-24 07:11:27
Saussure @mamiyac330

不愉快さを先取して主張した者が弱者のポジションを奪取して正統的を主張し相対的な優位性を得ようとする。現象として何が起きているのか。消費の場面ではクレーム愛好者、医療、あるいは教育ではモンスターペイシャント、モンスターペアレント、行政窓口などにおける行政暴力などである。

2011-11-24 07:19:46
Saussure @mamiyac330

閑話休題。外面的な指標によって弱者、強者のポジションが決定されるというのは謬見。現代では他者の反論を政治的正しさの元に封殺できることが強者の証。マスコミによるある特定の個人、団体に対する集中的なバッシングがその典型例。バッシングする立場である限り正義が担保されるということ。

2011-11-24 07:34:08
Saussure @mamiyac330

乳幼児を連れた母親に配慮することは政治的に正しい。だが反論し得ない無謬性と親子連れに侮蔑的な言葉を投げ付けた方の不遇感をその方が比較考量し、ご自身の不遇感が優先された場合、その不遇感の埋め合わせに不愉快さを表明、その場における弱者の立場と正統性を奪取しようとしたのではないか?

2011-11-24 08:02:19
Saussure @mamiyac330

このように弱者のポジションを先取する構えはニーチェがこき下ろしたキリスト教道徳に重なる。「〜は幸いである」という山上の垂訓に由来するものだが、難しくなりそうなので、次回以降は消費社会から考えてみたい。

2011-11-24 08:12:08
Saussure @mamiyac330

他者に侮蔑的な言葉を投げつける方について消費社会の在り方から考える。件の例はバス車中のことであった。当然、バスを利用する為には運賃を支払うという経済活動を伴う。運賃を支払う限り快適にバスを利用するのは当然の権利であり、その快適性が妨害されれば抗議は正統な権利であるという主張。

2011-11-25 06:02:34
Saussure @mamiyac330

消費社会では対価を支払うことで権利が発生すると考えられる。より多くの対価を払ったものがその場において優先的に権利を主張できると考えてもおかしくはない。件の例では運賃の割引が適応される子供に対する不快感の表明であった。せこいと思うことなかれ、染み付いた無意識は深く行動を駆動する。

2011-11-25 06:14:03
Saussure @mamiyac330

バス車中で親子連れに侮蔑的な言葉を投げつける方が何故消費社会から生じて来たのか。ただより高いものはないという言い回しがある。これは無償で便益を享受した場合後々受けた便益以上の対価を払う羽目に陥ると解釈されるがそうではない。大切なものは金銭的対価では入手できないということである。

2011-11-26 10:22:29
Saussure @mamiyac330

消費社会では貨幣が即時的に商品に変換されることを保証している。貨幣が存在しなかったら。我々は手持ちの商品を欲している商品と交換するために長い旅路を辿らなければならないだろう。人類は交換価値しか持ち得ない貨幣という特殊な商品を発明することでその手間を省くことに成功した。

2011-11-26 10:34:29
Saussure @mamiyac330

貨幣があれば望む商品を即時的に手に入る。この信憑にはピットフォールがある。貨幣さえあれば何でも手に入るという勘違いを生んでしまうから。我々は多かれ少なかれ、手に触れた物全てを黄金にできる魔法を望んでいる。しかし、その物語が伝えるように本当に大切なものは金銭的対価では手に入らない。

2011-11-26 10:46:25
Saussure @mamiyac330

本当に価値のあるもの。陳腐な言い回しになってしまうが、愛情や信頼、癒しのみならず生命すら金銭的対価では手に入らない。それを手に入れたければまず自分から他者に向けて愛情や信頼、癒しを差し向ける必要がある。そしてそれは長い時間と経程を通って別の形で差し戻される。

2011-11-26 10:56:56
Saussure @mamiyac330

本当に価値のあるものは貨幣を媒介した商取引のタームには馴染まない。然るに消費社会はその基本認識を覆い隠す。バス車中の親子連れにある程度寛容な態度を示すことは即時的には利益をもたらさない。商取引のタームに照らし合わせば不利である。しかし、その寛容は長い時間をかけて差し戻される。

2011-11-26 11:14:29
Saussure @mamiyac330

勿論、寛容を示された側はその程度に応じて、別の形でその負債を返却しなければならない。今、現時点において即時的に便益をもたらさないものは価値がないとする信憑を消費社会は生んでしまった。しかし、本当に価値あるものは入力から出力までには長い時間がかかる。消費社会はその想像力を奪った。

2011-11-26 11:23:39
Saussure @mamiyac330

バス車中で親子連れに侮蔑的な言葉を投げつけた方は即時的にはその場での便益、バスを快適に利用する権利を得たかもしれない。しかし、彼の示した不寛容は長い経程を通って彼自身に差し戻される。残念なことに自分の行為のツケを支払わせられたと気が付いた時は後の祭りである。

2011-11-26 11:31:32
Saussure @mamiyac330

金銭的対価では本当に価値あるものは手に入らない。ここで、消費社会とは社会的紐帯に切断を加えるものであるという認識を改めて確認をしておきたい。

2011-11-26 11:37:36