名将と持て囃されていると、否定したくなるのが人情というもの。いや、否定まではしなくとも、「ちょっと待てよ。よく考えようぜ」と言いたくなる。そういう時って、表面的な記述だけで語られる場合が多いからね。
2011-11-23 14:36:46馬隆が集めた勇士は36鈞の弩と4鈞の弓を引ける者。1鈞は約6.7kgなので、弩の方は240kg、弓は27kgだね。弩の方は530ポンドのクロスボウ並の威力だ。存在するのか?
2011-11-23 21:46:36流れとしては、勇士を募る→武威に向かう→武威で鮮卑の降伏者らを受け入れる→そいつらを率いて樹機能と戦って撃破する、というものだな。
2011-11-23 22:34:20樹機能を破ったのが没骨能だったら、「武威まで遠足しただけじゃねーか」と言えそうだったのだが、没骨能らを率いて戦ってるからなあ。disり方を見つけなければ
2011-11-23 23:14:27武威までの遠足は詳細に語られてるのに、最後の樹機能との決戦はさらりと書かれているだけ。この辺が不親切だよな。もっと詳しく書けよと
2011-11-23 23:21:35一つ分かる事は、馬隆は増援を得ていないので、最終決戦においても漢人の戦力は3500人を超えなかったという事だ。大半が鮮卑などの降伏者だろう。戦力の比率として騎兵のウェイトが大きくなるはずだ
2011-11-23 23:33:11@yunishio 文俶の平慮護軍は、蜀健在時の討蜀護軍に相当すると思います。都督が時宜に応じて派遣し、州郡の兵や都督の兵を指揮させる存在だと考えますので、確実に馬隆よりは上ですね。ですが、馬隆が文俶の節度に従った様子は無く、文俶が同行した様子も無いです
2011-11-23 23:55:00司馬駿と文俶は馬隆への支援をしなかったのか?武威への道すら開かれていなかったようだし。だが、馬隆の赴く2年前には文俶が秦、雍、涼三州の軍を指揮して樹機能を降伏させている。
2011-11-23 23:57:21さて、興味深いのは馬隆の戦い方である。彼の戦い方がヤン・ジシュカのものに似ている事は話した。偏箱車と鹿角車を使い、簡易陣地を作って騎兵の攻撃を防ぎ、弓弩にて敵を制圧する、というもの。弓弩が主体な為、攻撃には向かないが、防御には良い
2011-11-24 00:05:54何故馬隆は36鈞の弩と4鈞の弓を引けるものを集めたのか?これは、馬隆の構想に弩と弓の併用があったからだ。弩は全身のバネを使って引く為、どうしても再装填に時間が掛かる。いくら簡易陣地があるとは言え、再装填までのラグは騎兵相手に致命的だ。
2011-11-24 00:12:06武威までの道程の一場面で、敵が鉄の鎧を着ていたとする記述がある。鮮卑の集団が遊牧民らしく軽騎兵ばかりなら、こうした事は起こり得ない。重騎兵や歩兵の存在があった事が分かる。この大乱には白虎文らの羌も参加している。羌は山谷での戦いに長じた勇猛な歩兵であり、これも羌だった可能性がある
2011-11-24 00:36:37強弩士五千が御覧に載ってるかな、と思って調べたけど、やっぱり載ってなかった。強弩士五千と連弩士三千という組み合わせが本当なら、馬隆が強弩と弓を組み合わせた事を諸葛亮の運用に準えると思ったのだが。
2011-11-24 00:52:20ただ、強弩と連弩、強弩と弓の組み合わせは合理的に思える。至近での制圧射撃の他に、遠距離から間合いを詰めてくる敵騎兵への射撃も考慮しなきゃならない。有効射程と速射性を両立させることが出来ないのなら、両方持たなきゃならない。ただ、27kgの弓がどれだけ連射できるのかは知らない。
2011-11-24 00:57:50馬隆の戦い方が射撃を主体とする以上、矢の消費は不可避である。偏箱車や鹿角車は大量の矢を運搬する輸送車両の役割もかねていたのは言うまでも無い事だ
2011-11-24 00:59:17@yunishio 武威に到達した馬隆に帰服しただけですからねwwまあ、何かの物語を考える上で多少は活かせるのかもしれませんが、さほど影響は無いですね
2011-11-24 01:17:05@yunishio ありがとうございます。テイですか。そうすると武威で帰順ってのに若干の考察がいりますね。帰ったら確認します。
2011-11-24 14:44:50