レチタティ〜ヴォは「語り」だからって 退屈なものにしてはイカン
1) バッハ「クリスマス・オラトリオ」のエヴァンゲリストを歌うので、練習中なのだが、バッハの書いたレチタティーヴォのリズムやメロディがドイツ語の自然な発音に合っていない部分が多い。 これをどう処理するかが難しいところ。
2011-12-08 06:43:412) 歌詞のアクセントと音楽のアクセントがあっていなかったり、長い母音に短い音符があてられていたり、旋律の頂点が言葉にあっていなかったり。
2011-12-08 06:47:323) レチタティーヴォの主な機能が、「歌う」ことよりも「語る」ことにあり、聴き手に聴き取りやすく物語を伝えるものであるならば、書かれた音符、音楽を最優先にして言葉のほうを不自然にするのはやはりおかしい。
2011-12-08 06:51:144) ということで、バッハのレチタティーヴォを歌うときも、言葉の流れ、アクセント、切れ目などによって、書かれた音符に長短、タイミング、強弱などで調整、修正を加えていかなければならない。
2011-12-08 06:53:455) 楽譜では均等に八分音符が並んでいても、あるものが長くなったり、不均等になったりする。休符が書いてあっても、言葉がつながって先に言っている場合は、休符を短くしたり、またはほとんど無くしてしまっても良い場合がある。
2011-12-08 06:57:046) かといって、書かれたオリジナルの音符とかけ離れた「編曲」にしてしまってもいけないわけで、このへんが熟慮、良い趣味の必要なところだ。また外国人にとっては、ドイツ語の文のリズム、流れをきっちり把握しなくてはならない。
2011-12-08 07:00:177) 以上書いたような、書かれた音楽を歌詞の発音の都合のために微調整するというのは、レチタティーヴォだけでなく、他のふつうのスタイルの歌でも、わずかだが起こっていることであるし、それが必要なことも多い。
2011-12-08 07:02:428) さて、バッハのレチタティーヴォの歌い方は時代とともに変化している。歴史的奏法や唱法の流れでは、「歌うのでなく、語るのだ」、という点が強調されてきた。それによって変わったのは、まずスピード。テンポは速くなった。
2011-12-08 07:08:1410) これには必然性があるし、基本的方向としては分かるのだが、この方式をドグマとしてしまうと、今度は滑稽な行き過ぎが目立つようになる。とにかく「何も起こらないように、早口で通り過ぎるようなレチタティーヴォのあつかい。
2011-12-08 07:13:4811) レチタティーヴォにはいろいろな場面や、状況が描写されるのだし、ひとつひとつが特徴的である。バッハもそこに工夫を凝らしている。そして歌詞の伝える出来事に対する、話者の反応、共感、驚き、喜び、悲しみなどが実に多様に織り込まれている。
2011-12-08 07:18:32訂正 12) そのような多様なレチタティーヴォに対して「語りである」という一つだけの論点を振りかざして、全てを平均で退屈なものにしてしまうのは、どうかと思う。バッハの楽譜を詳細に見て、心で捉えたら、そんなことはできないだろう。
2011-12-08 07:47:1813) 基本的に「語り」であるレチタティーヴォにも、しょっちゅう「歌」の要素が入り込んでくる。そして「語り」と「歌」をいかに混合するか、あるいはスイッチのように切り替えるかというのが、レチタティーヴォ演奏の芸術だと思う。
2011-12-08 07:26:1814) 純粋な朗読のほうが良いなら、レチタティーヴォにして歌う必要もないわけである。だからレチタティーヴォを話し言葉のナチュラルスピードに近づけて満足するのではつまらないと思う。それこそ退屈。
2011-12-08 07:29:2515) バッハ「クリスマス・オラトリオ」の演奏を控えて、レチタティーヴォに取り組みつつ考えたことを書きました。受難曲ではさらにレチタティーヴォの役割が重い比重を占めます。
2011-12-08 07:32:34音楽を偏狭に捉えてはだめ。豊かなイメージをつたえる音楽を、一定のドグマ(教義)に従って処理してはだめ。ひとつひとつの曲、ひとつひとつの箇所を自分の目でよく見なくちゃ。また、ハートで捉えなきゃ。
2011-12-08 07:43:05