高橋源一郎さん(@takagengen):午前0時の小説ラジオ「祝島で考えたこと」

高橋源一郎さん@takagengen → 祝島は「中国電力・上関原子力発電所」への反対運動を30年も続けている島です。ある理由があって訪ねました。そこで感じたのは、予想とちがったものでした。うまく説明はできません。島を歩き、島の人たちと話しながら、ぼくは、「原発」とは関係のない、けれども、ぼくにとってひどく切実なことを考えていたのでした。
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高橋源一郎 @takagengen

本日の予告編① 今日、一月ぶりに「午前0時の小説ラジオ」をやります。少し、元気になってきたので、これから、ぼちぼち続けてやれるようにしたいと思っています。

2011-12-11 21:59:49
高橋源一郎 @takagengen

本日の予告編② タイトルは「祝島で考えたこと」です。ごぞんじの方も多いと思いますが、祝島は「中国電力・上関原子力発電所」への反対運動を30年も続けている島です。ぼくは、先月、ある理由があって訪ねました。そこで感じたのは、予想とちがったものでした。

2011-12-11 22:03:04
高橋源一郎 @takagengen

本日の予告編③ うまく説明はできません。島を歩き、島の人たちと話しながら、ぼくは、「原発」とは関係のない、けれども、ぼくにとってひどく切実なことを考えていたのでした。そのことについて、また即興でツイートしたいと思います。それでは、後ほど、午前0時に。

2011-12-11 22:04:58
高橋源一郎 @takagengen

午前0時の小説ラジオ・祝島で考えたこと① 山口県上関町祝島へ行った。映画「祝の島」や「ミツバチの羽音と地球の回転」でとりあげられた、原発建設反対運動を30年以上続けている小さな島だ。僅か二日間の滞在、ただの通行人の感想を言いたい。ぼくはとても強い、強い印象を受けたのだ。

2011-12-12 00:00:02
高橋源一郎 @takagengen

祝島② 祝島は「反原発運動」の聖地のようにもなっている。けれども、そこを訪れた人なら、誰でも、そこでは「原発」のことなど、小さな問題であるような気がしてくるだろう。もっとべつの、ずっと大切ななにかが、そこにはあるように、ぼくには思えた。

2011-12-12 00:01:49
高橋源一郎 @takagengen

祝島③ 反対運動が始まった30年前の島の人口は1100人。そして、いまの人口は470人程度。島は毎年、正確に25人程度ずつ、人口を減らしてきた。日本の「地方」と呼ばれる場所なら、どこにでもある、「滅び」への道をまっすぐ歩む「過疎」の村だ。でも、この「滅び」は、なんだか明るい。

2011-12-12 00:03:48
高橋源一郎 @takagengen

祝島④ 30年続く、毎週月曜午後6時半からの「反原発デモ」。参加するのは、7、80人ぐらい。70代以上のおばあさんばかりが目につく。高齢化が進み、デモの距離も時間も短くなった。ざっと25分。狭く入り組んだ、家と家の間の、街灯なんかなく真っ暗な細い道を、老人ばかりのデモ隊が行く。

2011-12-12 00:07:13
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑤ デモをしながらおばあさんたちは世間話に花を咲かせる。「今日の晩御飯、なに?」「腰が痛くて痛くて涙がでるわ」「××さん、休み? どこか悪いん?」そして、時折思い出したようにシュプレヒコールをあげる。「故郷の海を汚させないぞ!」そしてまた「あっ、テレビつけっぱなしや!」

2011-12-12 00:10:08
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑥デモコースは決まっているので、家の軒先からエプロン姿に鉢巻きをしたおばあさんが、手を拭きながら飛び出してくる。「ちょっと待ってえ、掃除しとったから」。と思うと、別のおばあさんがデモの隊列を抜け出して、「お米炊かなきゃ」といいながら、家の中に入って行く。

2011-12-12 00:12:23
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑦祝島のデモは次の三つの場合、中止になる。(1)雨の時(老人にはつらいから) (2)風が強い時(老人にはつらいから) (3)参加者やその家族に不幸があった時(老人が多いから) これが、この、島の「デモ」だ。

2011-12-12 00:14:28
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑧ 時々は、原発建設を目指す中国電力の本社がある広島まで出かけてデモをすることがある。その時、リーダーの藤本さんが「デモ申請」の他にしなきゃならない仕事は、おばあさんたちがデモの帰りに買い物をする百貨店やショッピングセンターのレジを臨時に増やしてもらうことだ。

2011-12-12 00:16:52
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑨ 帰りのフェリーの時間が決まっているので、デモから買い物へと流れるようにスケジュールを組む必要がある。娯楽の少ない島のおばあさんにとって、広島でのデモの帰りの買い物は大きな楽しみなのだった。

2011-12-12 00:18:19
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑩ 血を流すような激しい場面もあった。十億という大金を積まれたこともあった。だが、30年かけて、この島では、「デモ」というものを完全に咀嚼し、自分たちの体の一部分にしてしまったのだ。いつしか、それは、この小さな社会を生きて動かしていくために必要な血管のようなものになっていた。

2011-12-12 00:20:39
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑪ 島に独り暮らしの老人が多い。ぼくが泊まった宿の女将さんもそう。泊まった時、女将さんは体調を崩して寝ていた。「すいません、世話もできずで」「お構いなく」とぼくはいった。夜になると、下の階にある台所が騒がしかった。近所のおばさんたちが、晩御飯を作りに来てくれていた。

2011-12-12 00:22:59
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑫ 弱った人、老いた人、病んでいる人のところへ、近所のだれかがやって来る。誰かから命じられたわけでもない。「それが当たり前」だからだ。でも、助けに来る人も、すでに老いている。老いた人が、老いた人の手を引く、そういう共同体が、そこにはある。

2011-12-12 00:25:18
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑬ これはDVDで見た光景だ。78歳で独り暮らしをしながら米を作っている平さんは、毎晩、近所のやはり独り暮らしのおばあさんのところへ行ってコタツに入り、だらだらと話をする。他にも、そんな独り暮らしの老人たちが数人。声をひそめて話しながら、夜がゆっくり更けていく。

2011-12-12 00:27:34
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑭ いつの間にか、コタツに入ったまま寝てしまったおじいさんに、別の老人が声をかける。「風邪をひくよ。はやく、いえに戻んな」。大晦日には、そうやって、コタツに入ったまま「紅白歌合戦」を見ながら、静かに新年を迎える。老人たちばかりが、ひっそりと背中を丸めて。

2011-12-12 00:33:22
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑮ 島の南側は切り立った断崖が続く。その急な斜面に、島の人たちは蜜柑や枇杷を植えている。ぼくは、少しずつ昇って行く村道に沿った「段々畑」の間を歩いた。どの畑でも、働いているのは、老人で、そして独りだった。蜜柑の詰まった重たい箱を横に老いて、道に座りこんでいるおじいさんがいた。

2011-12-12 00:36:04
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑯おじいさんは「どこから来た?食うか?」といって蜜柑をくれた。ぼくは、来る途中、いくつもの、耕作を放棄された畑がある理由を訊ねた。するとおじいさんは、「耕す者が亡くなると、あとを継ぐ者がいないからね」と答えた。そして「みんな、原野に戻るんだよ」と。

2011-12-12 00:38:29
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑰畑の間の道を登り詰めると、その最奥、もっとも高い場所にたどり着く。そこが、平さんの「棚田」だ。城壁のような壁によって、何段も、高く積み上げられた田んぼがあった。それは、平さんのおじいさんが、40年かけて、山の石を切り落としながら、たったひとりで作ったものだ。

2011-12-12 00:41:07
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑱三段目の田んぼは今年から耕すことをやめた。平さんにはもうそんな体力が残っていないから。遥か上には、未完の「棚田」が、まだ二段ある。でも、それが完成することは、ない。「田んぼを継ぐ者はもういません。あとは原野になるだけです」。平さんも、同じことをいうのである。

2011-12-12 00:43:32
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑲平さんのおじいさんは「子孫たちが飢えないように」と願い、後半生を田んぼ作りに費やした。平さんも、島を出た子どもや孫たちのためにいまも米を作り続ける。字の読めないおじいさんにお話を読んであげるのが、小学生の平さんの仕事だった。でも、その役目をしてくれる孫は平さんにはいない。

2011-12-12 00:46:12
高橋源一郎 @takagengen

祝島⑳ぼくは、ひどく不思議な気がした。ぼくの母親の故郷は同じ瀬戸内の尾道、その近隣の農家が、ぼくのルーツになる。90歳を超えて、なお農作業をしていた曾祖母は「ばあちゃん、なんで働くン?」と訊ねられた「曾孫に食べさせたいから」と答えた。ぼくはその曾孫のひとりだったのだ。

2011-12-12 00:48:16
高橋源一郎 @takagengen

祝島21・父親の故郷は宮城県仙台、彼の両親は、田舎を捨て都会に出た。ぼくの両親もまた、農業や農家や田舎を嫌った人たちだった。その封建的な息苦しさに我慢できなかったからだ。彼らは、「自由」を求めて都市へ出た若者たちだった。だから、ぼくは、そんな彼らの末裔になる。

2011-12-12 00:51:04
高橋源一郎 @takagengen

祝島22・祝島に来て、そこで静かに働き続ける老人たちを見て、ぼくは、ぼくが見ないようにしてきた、そこに戻ろうとは思わなかった、忘れようとしていた、曾祖母たちを思い出していた。着ている服、ひび割れた手のひら、陽にやけた顔つき、人懐こさ。どれも、ぼくが知っているものだった。

2011-12-12 00:54:03