これらはその組織の中でも高位の、たいていは優秀なはずの人間によって作られる。しかしながら優秀なはずの彼らが作った戦略や計画が破綻することはかなり多い。それはなぜか?
2011-12-23 23:16:23ゲーム理論とか囚人のジレンマとかそういうので説明できる部分も多いのだが、まあ極論してしまえば『戦場の霧』である。
2011-12-23 23:25:40例を挙げればアテネ(デロス同盟)とスパルタ(ペレポネソス同盟)の間に発生したペレポネソス戦争では『戦争の抑止による相互利益の獲得』のために『戦争』を仕掛けて『相手が挑んでこれないようにする』という戦略がアテネ側にはあった。アテネ側と言うよりは当時のアテネのトップの、か
2011-12-23 23:33:39当時の経済的軍事的状況から考えて荒唐無稽な戦略ではなかった。実際スパルタ側も当初は国王が犠牲が大きくなるとアテネとの開戦に反対している。しかしスパルタの世論やペロポネソスの構成国はそうは考えなかった。
2011-12-23 23:37:45結果スパルタは開戦を決意して進撃する。野戦では当然スパルタ側が圧倒的に強い。アテネ側と言うよりもアテネのトップはこれを予期していた為にアテネ市に立てこもり、陸戦には一切応じず、その海軍力を生かしてペロポネソス同盟の構成国を脅かした。
2011-12-23 23:42:36アテネ側の指導者はこう考えていた。以下に強力なスパルタでもアテネ市の城壁を破ることは出来ない。しかしながらアテネはその強力な海軍力で陸軍を好きな場所に送り込める。戦いの主導権を握ったアテネは敵の陸軍主力と決戦することなく敵を消耗させアテネに優位な講和に至れる。と
2011-12-23 23:46:00スパルタがアテネ市の周りの畑から略奪し食料を得ていてもアテネはこれを見逃し続けた。海軍力の優位から金が許す限りは輸入できるということもあるが、陸戦に出ても勝てない可能性が高いからだ。しかし理屈はそうでもアテネの世論はそうは行かない。自分の畑が荒らされて怒らないはずはないからだ。
2011-12-23 23:53:15更に追い討ちをかけるように疫病が発生し市民が大量に死ぬ。ついでにこれまでのトップも積極性のなさから支持を失った挙句一緒に死ぬ。ここで歯車が狂いはじめる。
2011-12-24 00:05:15これまでのトップは「アテネに挑む困難さ」を示すことでアテネの利益を防御するのが目的であったが次の指導者はより積極的であり『ペロポネソスに勝利する』がアテネの目的になってしまう。アテネその後の戦いで海上機動により軍を縦横無尽に動かし絶対に降伏しないと言われたスパルタ兵を捕虜にする。
2011-12-24 00:09:21スパルタはその社会システム的に兵士=市民の補充が絶望的なまでに困難である。ゆえにスパルタは市民を大事にする。スパルタは捕虜の返還を条件に講和を申し入れるが、交戦的になっていたアテネはこれを拒否。戦争を継続ことになった。
2011-12-24 00:17:16ここで重要なのは最初のアテネ側の指導者-ペリクレス-だが彼の計画が最終的には破綻したということである。
2011-12-24 00:21:52では何故ペリクレスの戦略は破綻したか。アテネの民主制と言う問題点も確かにある。民主制は市民の支持で指導者が変わる。後継者が今までの対立者ということもあるだろう。実際ペリクレスの後継は積極派だった。
2011-12-24 00:27:17(今回は省略したが)その遠征の仮定で起きた嵐によるアテネ海軍の損耗が原因?しかし、デロスの金庫はその艦隊の再編成すら可能にした。
2011-12-24 00:32:35疫病の発生と本人の死は間違いなく想定外だったろうし、ペロポネソス側都市が異常に粘ったと言うのもある。これもペリクレスの想定外だっただろう。それらの発生は事前に予期できなかったに違いない。このように原因と思われるものを上げればキリがない。
2011-12-24 00:36:41では、ペリクレスの戦略そのものが間違っていたのか。これは難しい。一つ一つの戦場ではペリクレスの死後も彼がやろうとしていたようにアテネは戦ったし(シチリア遠征とか大ポカはともかく)それなりに成功してる。ペロポネソスは確実に疲弊した。しかし耐え切った。
2011-12-24 00:40:28