竹田青嗣『哲学講義21講』まとめ

竹田青嗣『哲学講義21講』を読みながらツイートしたものまとめ。 要約であったり引用であったり、自分の言葉で説明した場所であったりするので、必ずしも本の内容と一致しているかどうかは保証できません。
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H.Takano @midwhite

プラトンは著書『国家』の中で、教育の本質を「洞窟の比喩」で表現した。即ち人間とは洞窟の奥の壁しか見えないように縛られた存在であり、人間の後ろに人形劇のような事物の雛形があり、その後ろに光源がある。人間には壁に照らし出された影しか見えていない。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-10 12:45:08
H.Takano @midwhite

人間は習慣と習俗に縛られた存在であるため、前方の影だけを見てこれのみが実在だと思い込んでいる。そこで後ろを振り返り、主観的なドクサから抜け出て普遍的な真実(エピスメーテー)に辿り着くことこそが、陶冶(教育)の本質である、とプラトンは言った。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-10 12:54:54
H.Takano @midwhite

ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と表現し、これを社会科学の原理の出発点とした。そこからこの普遍闘争を抑制するためには国家権力が必要である主張し、その後にルソーが国家権力のもたらす三角構造を是正すべく国民主権を提案した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:17:48
H.Takano @midwhite

農耕は人類にとって画期的なテクノロジーの発見であったが、普遍闘争と普遍支配構造の開始点となった。国家同士が闘争し、淘汰の果てに巨大帝国が現れては衰退し、世界が再び普遍闘争へ陥る。この繰り返しが歴史であり、これを止めるべく社会哲学は発達した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:23:30
H.Takano @midwhite

もちろん人類は戦争を止めようとした。その方策の類型は四つある。互いに物を贈り合って敵意の無いことを示し合う「贈与」、主として女性を交換する「婚姻」、必要な物を交換し合う「交易」、そして最後に「宗派の統合」。しかしそれでも戦争は止まらなかった。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:27:03
H.Takano @midwhite

ホッブズやルソーが新しい近代国家の原理を提示するまで、普遍闘争を止める原理は世界に存在しなかった。彼らは国家権力によって個人の闘争を止めようとしたが、その権力とはつまるところ「自由を創出する力」であり、単なる圧政的な暴力的権力とは全く異なる。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:33:51
H.Takano @midwhite

ホッブズやルソーを「国家権力の擁護者」として批判する声がよく聞かれるが、それは批判者が彼らの言う「権力」を「自由を創出する力」ではなく「圧政的な実力」と勘違いしているだけなのである。国家権力が無ければ、人類は普遍闘争状態に逆戻りしてしまう。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:37:49
H.Takano @midwhite

できた建物が悪いのは、設計図が悪かった場合と、材料や建て方が悪かった場合がある。近代国家は現実としては古い支配者層による権力の独占を許してきたが、それは必ずしもルソーやヘーゲルの設計した近代国家の原理が悪かったことを意味しないのである。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 10:44:39
H.Takano @midwhite

若者が持ちやすい懐疑主義的な思想は、青年期の「自己意識の自由」の一類型であるとヘーゲルは看破する。即ち、論理的に常に相手のメタレベルに立つことが超自我と化しているのである。なぜなら、これは自己意識の優位を確立する上で非常に強力な方法だからだ。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 14:48:45
H.Takano @midwhite

ヘーゲルによれば、懐疑論が若者にとって魅力的である理由は、絶対的な心理や正しい考えの不在を信じることで、どんな考えも退けることができる上に、その事を知っているのは自分のみであるという思想を持つことで、自分の優位を確立できると考えるためである。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 14:53:25
H.Takano @midwhite

中途半端な懐疑論者は「全てが怪しい」とは主張するものの、その「全てが怪しい」が「絶対に正しい」と思っていて、実際には「全てが怪しい」と思えていない。ヘーゲルは懐疑論を「全てが怪しい、も怪しい、も怪しい…」の無限循環になるに過ぎないと看破した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 15:11:09
H.Takano @midwhite

フッサールは懐疑論者についてさらに強烈な批判をしている。曰く、懐疑論者は本当は世界の存在を確信しているけれども、他人に対してそれを認めるか否かは自分の自由である、と信じる彼の内的信念を曲げる権利は誰にも無い、ということは確かである、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 15:19:47
H.Takano @midwhite

ヒュームは『人性論』の中でこう書いている。即ち、「いかなる原因が我々に物体の存在を確信させるのか問うのは構わないが、物体が存在するのかどうかを問うのは無益である。これはあらゆる推論において認めなければならない前提である。」と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 15:33:14
H.Takano @midwhite

つまり彼は、中途半端な懐疑論者のように「全ては怪しい」などと言わなかった。むしろ、怪しまれるべき存在を含む一切の認識を「信念」に還元し、「なぜそれが存在すると確信するに至ったか」という、「確信」の構造を問う哲学の新しい形態を提示した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-12 15:40:28
H.Takano @midwhite

近代国家は人々の合意によって主権を作っているので、統治権力は常に人々の一般意志を代表しなくてはならない。統治権力の正当性の源泉はただ「一般意志」を代表することにのみある。よって、ルソーが国家主義のイデオローグであるとする批判は的外れである。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 15:21:51
H.Takano @midwhite

農業革命は人類の定住と蓄財を生み、そこから戦争が生まれた。人々は互いに不信となり、共同体を作って闘争を繰り返した。闘争の勝者は主となり、敗者は奴となる。そして主はまた別の共同体と闘争し、共同体の統合が進む。こうしてできたのが古代帝国である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 15:28:49
H.Takano @midwhite

この闘争の歴史が共同体のニーチェの『道徳の系譜』にうまく描かれていて、エジプト王朝、ペルシャ帝国、マウリヤ王朝、秦王朝、ローマ帝国などが代表的な古代帝国である。この人類の普遍闘争状態をホッブズは「万人の万人に対する闘争」と呼んだ。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 15:36:18
H.Takano @midwhite

ホッブズはこの普遍闘争状態を止める手段として、超越権力による統治状態の創出を提案した。しかし、この超越権力を創造する方法は、闘争を繰り返しが大帝国を出現させる「覇権の原理」しか存在しなかったが、この原理は直接収奪型専制支配にしか帰結しない。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 15:42:48
H.Takano @midwhite

ルソーは普遍闘争を抑制し制御するために、超越権力が必要であるというホッブズの説を認め、その上で絶対支配構造を生まず、各人の自由を確保しつつ普遍闘争を抑制する超越権力を創る原理が一つだけある、と考えた。それが『社会契約論』の有名な冒頭である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 15:50:24
H.Takano @midwhite

カントは「世界とは何か」の問いを突き詰めると次の四つの問いに帰結するとした。即ち「世界は時間的空間的に限界を持つか持たないか」「世界は最小単位を持つか持たないか」「自然法則とは別に純粋な自由という原因はあるか」「最高存在(神)は存在するか」。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 16:40:49
H.Takano @midwhite

カントは「世界とは何か」を突き詰めた四つの問いについて同様に正命題と反命題の両方を論理的に正しいと証明した。それによって、両方の証明が実は論理上等価であり、決定性を取り出せないと主張した。これが有名な「アンチノミー」(二律背反)の証明である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 16:58:07
H.Takano @midwhite

カントによれば、人間の理性とは推論の能力であるため、理性はある与件についてその因果関係をどこまでも遡り、最終的に完全な像に行き着くまで推論を止めようとしない。例えば世界の始発点が「ある」なら「その前は何か」と問い、「無い」なら満足しない。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 17:11:26
H.Takano @midwhite

カントによれば、理性は初めに限定した範囲の中では完全性を求め満足することができるが、物事の極限まで問うと絶対的には答えられず、そのため極限を求める二つの推論のタイプに分かれて対立する。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)二つの推論のタイプってつまり、演繹と帰納のことだよね。

2011-12-16 17:15:50
H.Takano @midwhite

哲学的な問いは、大昔から様々な二元論的対立を生み出してきている。客観論と主観論、一元論と多元論、絶対主義と相対主義、観念論と実在論。中国哲学でもインド哲学でも、「どちらが正しいか」で夥しい数の議論があった。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 18:22:28
H.Takano @midwhite

カントによれば、アンチノミーの4つの問いはそのような世界認識の問いをまとめたものであり、これを系列にするとあることが分かる。正命題の系列は「世界に始発点はある」「物質に最小単位がある」「純粋な自由は存在する」「神はいる」で、その逆が反命題。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 18:27:37
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