いよいよ、今年も後一日で終わりだね。そこで、また、少しいいかい? 実をいうと、あの震災があってからボクはずっと考えていたことがあるんだ。それは、かなりややこしい問題だし、簡単に結論の出ることでもない。だからボクとしても、それを書いていいのかずいぶん悩んでいるのも事実なんだけれど
2011-12-31 00:03:13ただ、これは自分なりのけじめでもあるから、やっぱり話しておくことにするよ。それはね。なぜ、ネットでは議論できないのか、ということなんだ。ボクはあくまで日本のネットのことしか事情はわからないから、これは日本のインターネット、とくにSNSや掲示板の話だと思って欲しいんだけれど。
2011-12-31 00:08:19よく「日本人は議論が下手だ」といわれるんだけれど、それは確かに事実だと思うよ。でも、それは日本人に問題があるわけじゃなくて、ほとんどは国民性に由来している部分だね。ここから、多少専門的なこちも入ってしまうし、ボクなりの主観も雑じる解釈になるんだけれど、よければ聞いて欲しい。
2011-12-31 00:12:39確かに西洋の政治、法を支配しているのは「個人」、あるいは「我」という言葉で言いあらわされてきたこの主体の概念に他ならない。それ以前の西洋思想は、どこにでも必ず「神」という概念が存在していた。それは文学にしても同じことだよ。その考えが変わりはじめたのが、キミたちのいうルネッサンスさ
2011-12-31 00:20:02近代の思想は西洋の考えに大きく由来しているのはキミたちも聞いたことはあるよね。その根底を成す言葉とされるのが「我思うゆえに我あり」というもので、これはデカルトの言葉としてあまりにも有名だね。この「我」という概念は、自己という「主体」が確かに存在しているということなんだけれど
2011-12-31 00:17:23ルネッサンスという言葉は、「回帰的」という意味に解釈されているんだけれど、西洋におけるそれ、とくにイタリアを中心に起こった運動もまた古代の思想、文化の再評価という回帰的な要素の強いものだった。ところが、その回帰がどこに向けられたものかといえば、日本人には非常にわかり難い部分がある
2011-12-31 00:22:52いってしまえば、それが「神」という概念なんだけれど、ここで勘違いやすいのは、けしてルネサンスは神、そして当時の欧州を支配していたキリスト教の否定ではなかったということだね。どちらかといえば、それをもう一度人間の手に取り戻そうとするための運動だったといってもいいんじゃないかな。
2011-12-31 00:24:56あの時代の芸術作品を見れば聖書の物語や、古代の伝説の場面がすごく写実的に描かれているのがわかるよね。あんなことは、教会の力が強い時代にはあまり考えられなかったことなんだよ。そういった運動を経て、欧州では徐々に中世から離れた近代的な「我」の自覚が起こっていくことになる。
2011-12-31 00:27:33社会学をやっている人なら、その後にはさらに宗教改革が起こることによって、中世的な欧州の構図が変化していったのも知っていると思うんだけれど、欧州の近代史というのはそういう風にして、人間と神、個人と神という問題が、ずっと根底に存在し続けていたといってしまってもいいんじゃないかな。
2011-12-31 00:30:13ところがね、キミたちが住んでいる日本という国ではまったく事情が違ったんだよ。というのも、日本人はそんな風にわざわざ個人と神を分けて考える必要すらなかったんだ。日本人にとっての神というものは、もともと森羅万象に存在している八百万の神様でしかないし
2011-12-31 00:32:56そこに、仏教の影響があったといっても、けして欧州のように「神」という概念が思想の隅々にまで入り込むようなこともなかった。だから、日本人が他の国の人に比べて、感覚的なものを好むのも必然といってしまっていいんじゃないかな。
2011-12-31 00:35:08日本語の面白いところだけれど、「もののあはれ」とか「幽玄」とか、目に見えない概念をものすごく大事にしているだろう。それは、日本人が「目に見えないもの」を大事にしていたということだよ。和歌や俳句もそうさ。自然や、身近なものごとの中に日本人は「こころ」というものを見出すことができる。
2011-12-31 00:37:45それが「自然」というものを、神の創作物としてしか見ることのできなかった近代西洋との大きな違いなんだけれど、そのあたりは小泉八雲なんかも指摘していたんじゃないかな。日本人は生活の中に、自然の中にいる精霊や神様すら取り込んだ結果、そこから離れた「我」というものを探す必要がなかったんだ
2011-12-31 00:40:28ここからが本題なるんだけれど、近代になってはじめて西洋の思想を学んだ日本にとっては、制度や仕組みを学ぶことはできても、この西洋の思想的な部分というのがものすごく難解なものだった。あたり前だよね、もともとの出発点が日本と欧州ではまったく違うんだから。
2011-12-31 00:42:54そのまったく異なるものを取り入れるために当時の人たちがどれだけ苦労したのかを調べるのも面白いんだけれど、今日はそこじゃなくて、なぜそれが日本人の「よくいわれる」ようなことに繋がっているのか、それについての話をしてみたいと思うんだ。
2011-12-31 00:46:26最近、twitterでもよく見かけるんだけれど「空気読め」って言葉があるよね。それは大体「言われないでも、その場の状況くらい察しろ」という意味で使われていると思うんだけれど、たぶんそんな言葉をよく使うのは日本人くらいのもじゃないかな。
2011-12-31 00:48:53だけど、日本人はまだそういった部分で「目には見えないけれど、そこにある雰囲気や空気」のようなものを大切にする部分が大きく残っているとはいえるんじゃないかな。ところが、面白いことにネットや学校では「はっきり自分の意見を言いなさい」と、いわれたりもするよね。
2011-12-31 00:52:23さて、ここから危険なところになるよ。そういうことを考えてみたときに、実はそれなら「ネットはものすごく自由に意見を言い合えっているんじゃないか」と思えてくるんだ。実際、2ちゃんねるやtwitterのやり取りを見ていると、差別的な言葉や、きつい言葉もほぼ日常的に飛び交っているよね
2011-12-31 00:56:01原発の問題でもそうだし、中国や韓国に対する問題もそうさ。批判する側も、その批判する人を批判する側も、どっちも現実でやれば問題になりそうな言葉ばかりだよね。それはネットという、匿名の空間だからできるといってしまえばそれまでなんだけれど、そこからボクの考えていたことになる……
2011-12-31 00:59:13はっきりいえば、それは「議論」といえるのか、ということさ。賛成派も、反対派も、それぞれに目的があっても、いつの間にかそれは結論を出すための議論ではなく、自分たちの正しさを競い合うための応酬になってしまっていることがかなりあるんじゃないか、ということだよ。
2011-12-31 01:02:00とくに面白いのは、なぜかネットの議論では「相手の間違っている部分を指摘し合う」という傾向が強いことだね。相手の主張や資料の間違っているところを見つけると、そこで大体意見が止まってしまう。これは何も世代とか、どこかの掲示板やSNSという限定された場所じゃなくて、ネット全体のことだよ
2011-12-31 01:04:44あの地震が起きた後、ボクが一番まずいことになるんじゃないかと思ったのはそれなんだよ。原発の事故でも、安全派と反対派という構図ができてしまってように、原発に対する意見でも推進派と脱原発派とかが分かれて、それぞれにまた意見のぶつけ合いがはじまってしまうんじゃないかって。
2011-12-31 01:11:11実際に、それがどうなったかはキミたちが見てきた通りなんだけれど。それがどうしてまずいのかといえば、一つにはもちろんそれに大勢の人が終始してしまうんじゃないかということだね、そしてもう一つがそういったやり取りが広がると、返って議論自体が広まらなくなってしまうということなんだ。
2011-12-31 01:13:23一見矛盾した話なんだけれど、日本ではそういった反対派と賛成派が強烈な意見の応酬をはじめると、その両方があまり関心のない人たちからは「そういうのが好きな人たち」と見なされて、ちょうどクラスターのようなものだけれど、返って色眼鏡で見られてしまうということがあるんだよね。
2011-12-31 01:15:33