おはようございます。昨日は風邪のせいで一日うつらうつらしていたので、今朝はすこし早起きして、原稿二本仕上げました。「論争について」と「批評について」。論争的であることと批評的であるということはぜんぜん違います。批評的というのはものごとをラディカルにとらえるということですから。
2012-01-25 08:54:11ものごとをラディカルにとらえるためにはふたつ要件があって、ひとつは「同一物の反復」を見逃さないこと。回帰性のパターンをみつけることです。マルクスが言うように「前代未聞のもの」を自称するもののほとんどは「過去の亡霊」の焼き直しですから。
2012-01-25 08:56:27あらゆるところに回帰性・同型性を発見できる知性だけが、ごくごく例外的に出現する「これまでのどのような同型性にも回収できないもの」、「真に創造的なもの」を感知できます。批評的であるというのはそういうことだと僕は思います。町山智浩の映画論を「批評的」であると思うのはそのゆえです。
2012-01-25 08:59:22論争的な人たちのアポリアは「論敵が知的に不調であることから利益を得る」モデルを採用していることです。このモデルが一般化すると、人々は集団構成員の自分以外の全員が自分より愚鈍であることが利益を最大化することだということに気づきます。
2012-01-25 09:01:33「万人が隣人が自分より愚鈍であることを願う社会」が論争的な社会の実相です。そのような社会が知的に生成的なものたりうるということを僕は信じません。というわけで僕は論争ということを止めて、代わりに「懇請」をすることにしました。おねがひ、聴いて~。
2012-01-25 09:03:11懇請は個別的な言説の理非適否を判定する「集合的な叡智」が存在する、という信憑の上にしか成り立ちません。もちろんそんなものが自然物として存在するはずがありません。それは作り上げるものです。「集合的な叡智が存在しなければならないる」という祈りだけが、それを創り出すことができます。
2012-01-25 09:04:53これぞ、核心! @levinassien 論争的な人たちのアポリアは「論敵が知的に不調であることから利益を得る」モデルを採用していることです。このモデルが一般化すると、人々は集団構成員の自分以外の全員が自分より愚鈍であることが利益を最大化することだということに気づきます
2012-01-25 09:08:53@kenichiromogi あら~、「大向こう」からご声援ありがとうございます。このタイミングで「よ!高麗屋!」というような声が入るのが、Twitterのいいとこですね。
2012-01-25 09:11:01