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おかざき乾じろ @kenjirookazaki
ブルーノ・タウトは東照宮をイカモノであると批判した。このイカモノという語はタウトがキッチュと呼んだ語の翻訳。ところがタウトは柳宗悦が関心をよせる民藝(のちに柳がこうよぶ品)をも趣味の低いイカモノであるとして揶揄した。柳自身によればこれはゲテモノ(下手物)にあたる。
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
下手物とは、生活あるいは、その生産過程ののっぴきならぬ制約=ぎりぎりに絞られた条件の中で要約、省略、デフォルメされた事物をいう。必要外の部分を省かれたという意味で劣悪。が結果、標準形式を変形した固有な形式=形態を生みだす創造性も見出せる。用の美、目的(倫理)が生みだす形態の美と。
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
キッチュ(イカモノ)はあくまでもその商品が流通し受容される意味―イメージのみ確保し、必要外は省くことによって作られる。流通過程が生みだすアイデンティティ。だがその像、及び形式の同一性はその流通過程においてのみ確保されるために、そのコンテクストから外れればすぐマガイモノにみえる。
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キッチュは制作過程(一次過程)ではなく、その流通過程(二次過程)における消費受容の形式。ゆえにいかなる真性なる芸術(そういうものがあったとしても)であっても、この流通過程においてはキッチュと同じ形式で処理されてしまう(キッチュ化される)。だから芸術/キッチュの二分法は不正確。
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この過程で全ては、キッチュ同様に、イメージを付与され意味づけられる。一方でそれゆえそれら全ての形態は物質的基底=必然から切り離され偶有的(交換可能)、存在根拠なく浮遊して見える。いわば『この富士山は確かに富士山だがうでない』とその同一性が破綻し、不気味にみえる。
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
石子順造のキッチュ概念にはイカモノとゲテモノを同時に内包し混乱。イカモノが現象するのは基本、趣味の領域、ゲテモノは機能=倫理の領域。柳の民藝はこれを趣味を超えた趣味として扱おうとして無理が生じる。ゲテモノはザッハリカイトなもののこと。安吾の『日本文化私観』は正確にこれ。ぶれてない
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
バタイユが『ドキュマン』で扱ったものもゲテモノといえよう。下手物は基本的に機能的。肝心なのは機能は単一ではなく複数あり、それらが互いに通約できないこと。ユクスキュル(あるいは水木しげる)が書いた生物たちが互いに通約できない世界に住んでいたように。機能は常に特殊ある意味主観的。
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@nonomurax 鶴見俊輔に無理に対応させれば、キッチュ=大衆芸術、ゲテモノ=限界(マージナル)芸術、となるけれど、鶴見の図式は同心円的(つまりは中心と周縁の図式)なところに難あり。だが本来、キッチュもゲテモノも多中心的。これを一元的に束ねているのがメディア(ヘゲモニーの)。
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
ところでゲテモノであれ芸術であれ流通過程(基盤メディア=ヘゲモニー)の上ではキッチュとして現象する。いいかえればキッチュは表向きの符号性=アイデンティティの下に複数の別の形式とそのコンテキストを隠している。現象としてあるのはコンテキストそのものではなく、その残余、断片としての細部
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
キッチュは自己イメージを自同律的に確保し(いつ、どこでも私は私?)、ゆえに外部=基底がなくいつも破綻している。不気味。自己疎外。このズレから潜在的にありうる別の形式を読み取るには批評家自らありうべきコンテキストを仮設、演じなおす必要がある。お里が知れるというリスクをおかしつつも
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
お里が沢山あること作れることを知っていれば、おそらく石子はもう少し対象=キッチュ現象を議論の場に開くことができたろう。だがどうやら石子も一人の悩める消費者でに止まった。石子自身が言うように、キッチュを所有する人は誰でもそこにいわば自分のお里(のみ)を作り出してしまうのだから、
おかざき乾じろ @kenjirookazaki
たとえばイカモノはH&M. 無印はゲテモノ?というほど徹底しておらず、むしろもっとイカモノを勉強(値段も勉強して)したらとも思う。

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