『科学はどこで道を誤ったのか?』(3)ヘレニズム・ローマ帝国時代~帝国の統合需要に根ざした科学技術の体系化と個人の救い欠乏発の数学の発展
さて、今日も科学の歴史を振り返ってみたいと思います。前回の重要ポイントは、『なぜギリシャは純粋な数学と結び付けて自然を追究したのか?』という問いについてでした。
2012-01-28 21:51:30その答えはは、①戦争により共同体が失われ、山賊集団同士で寄り集まったのがギリシャであるということ②規範のない集団をまとめるために、誰もが納得する普遍的な根拠を自然の背後に求めたということです。
2012-01-28 21:51:45パルテノン神殿の美しさに見惚れるのは誰でもできますが、古代ギリシャ人がなぜ数学的美意識に強く関心を持っていたのかを考えていくと歴史が面白くなりますね!
2012-01-28 21:51:56本日は、下記の投稿で勉強してみたいと思います。 『科学はどこで道を誤ったのか?』(4)ヘレニズム・ローマ帝国時代~帝国の統合需要に根ざした科学技術の体系化と個人の救い欠乏発の数学の発展 http://t.co/NCEhyclm
2012-01-28 21:52:193-1.古代ギリシアは共同体が失われた人口集団であり、民主制も次第に衆愚制に堕落していく。ポリス同士の対立から、ギリシャ文明は潰えていき、アレクサンドロス大王の東方への殖民活動を通じて、東方との文化と人種の融合が進展していった
2012-01-28 21:52:323-2.やがてポリスは解体され、コスモポリス=専制国家の時代となった。専制国家は莫大な国家資本を投じて国家自身が産業者となりかつ貿易も管理する。専制国家は忠誠ではなく契約に支えられるものとなり、民衆は忠誠をつくす相手を失い、生きる目標を見失っていく。
2012-01-28 21:52:463-3.アレクサンドリア時代は、専制国家を支える官僚制により科学技術は一定の発展・形式化が進む。しかし、科学研究は単なる国威発揚の手段にすぎなくなり、末期には科学者自身が自身の存在意義に疑問を持ち始めた。科学の研究やその結果に意味を求めるようになり、占星術が流行していく。
2012-01-28 21:53:283-4.ローマ帝国の科学思想の特徴の第一は、アレクサンドリア科学を通じて、エジプト・メソポタミア以来の成果を受け継ぎ、新たな知見も総合している点にある。第二は、それを体系化している点である。その骨格は技術ないし実用的見地によって支えられている。
2012-01-28 21:53:403-5.第三の特徴は、地理的、歴史的条件の特殊性に注目している点であり、その土地土地にあった建築や医学を追求する必要から、ギリシャのような理念的な学究というベクトルにならず、フィールドワーク敵な展開を遂げていった(その代表がウィトルウィウスの「建築書」)。
2012-01-28 21:53:503-6.しかし、帝国が崩壊に向かうにつれて、末期にはまたしても個人の魂の救済が第1義課題となり、またしても占星術への関心がたかまり、その中から、中世ルネッサンスにも大きな影響を与えるヘルメス思想が登場することになる。
2012-01-28 21:53:583-7.(重要)ヨーロッパの科学思想の更なる転換は、救い欠乏を原点とした占星術が否定され、キリスト教が救い欠乏を独占したところから始まる。
2012-01-28 21:54:073-8.ゲルマン民族の大移動を契機に395年、ローマ帝国が分裂すると、思想家として活躍したアウグスティヌスは、自由学科や機械技術はキリスト教徒には無用であるというようになる。
2012-01-28 21:54:173-9.ヴァンダル人侵入のさなかにあった彼が自然学よりも魂の救済を主要課題としたのは当然の成り行きだった。しかし、後世への影響は測り知れないほど大きく、特に13世紀以後はアウグスティヌス主義的自然学の展開をみた。
2012-01-28 21:54:313-10.(重要)その要点の第一は古代自然学のキリスト教的改変である。彼は新プラトン派の影響を大きく受けたが、「無からなにも生じない」とするギリシャ思想に対してキリスト教は「無からの創造」を説くので、自然科学の問題意識はここで大きく転換した。
2012-01-28 21:55:163-11.(重要)第二は数学の賞揚であって、「大きさ、形、秩序の3つは神による被造物すべてにみられるよきものである」といい数学の広汎な利用を促した。ただし彼は占星術に対しては批判的であった。
2012-01-28 21:55:313-12.科学はこうして数学と結びつきつつも、実験・実証主義的で土着的・秘教的な意味合いを多く持っていた占星術がヨーロッパでは禁じられ、数学的自然観はただ神の存在証明のための道具となっていった。
2012-01-28 21:55:473-13.ヨーロッパの科学技術はこの頃から停滞が始まり、科学の中心は、ローマ帝国分裂後は、東ローマ帝国とたびたび戦ったササン朝ペルシアのジュンディシャープールが研究センターとなる。イスラム教は異教にも寛容であり、ローマからも多くを学び、アラビア科学が発達していきました。
2012-01-28 21:57:083-14.(まとめ)オリエント・ヨーロッパの科学史観を俯瞰してみていくと、その源泉の1つは、共同体の破壊と、それに伴う地域や民族を越えた統合を目指した帝国国家の存在が大きい。そしてもう1つは、共同体喪失がもたらす個人の救い欠乏が、絶対的普遍性をもつ数学に見出されたということです。
2012-01-28 21:57:223-15.(まとめ)そして、救い欠乏をキリスト教が独占した結果、数学的自然観は神の存在のための道具へと染まっていくことになる。そして近代科学の始まりは、次のルネッサンスで開花していくことになります。
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