テイラーのヘーゲル論-げしゅ☆ぺんすとさんのまとめ-

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げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

以前テイラーのヘーゲル論についてごく簡単にまとめた文章が見つかったので少し連投します。まぁ大枠的な話で大した内容ではないですが。

2012-02-01 00:07:41

本文

げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

テイラーのヘーゲル論の意図・文脈を簡単に振り返っておこう("Hegel"と『ヘーゲルと近代社会』の一章を参照して)。テイラーのこの点についての思想史的認識を簡単に再構成すれば以下のようになろう。中世においてはいわゆる「存在の大いなる連鎖」の観念が存在し、 (1/22)

2012-02-01 00:10:32
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

世界は目的論的な設計図に基づいて作られていると考えられており、人間はその秩序のうちで特定の場所を担う存在であった。しかるに、中世末期にかけてこの種の観念は衰退し、人間がそのような自然/秩序から自立して自由にそれに対するという態度が生じる。自然の客体化である。 (2/22)

2012-02-01 00:13:56
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

人間は自由になったが、それは自然や他者との有機的な関係を犠牲にしてのこと、諸々の分裂を引き受けることによってのみ可能なことだった。さらに客体化、それはここでは機械論的な認識をも意味するのだが、それが人間にまで及ぶ時、人間の自由さえも脅かされずにはいなかった。 (3/22)

2012-02-01 00:16:02
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

大ざっぱに啓蒙主義的といってよいこの潮流に対する二つの根本的な反対がドイツにおいて生じた。ひとつがヘルダーに始まる表現主義であり、もうひとつが理論理性と実践理性、現象界と叡知界を区別することで人間の自律を根拠づけるカント哲学である。 (4/22)

2012-02-01 00:17:12
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

表現主義とは人間の生をひとつの統一された芸術作品のように見、それが表現されることを重視する考え方である。この考え方にあっては、人間の表現能力の前提となる文化=共同体への帰属、そして表現にあたってより広い文脈となるべき自然との有機的な関係が重視される。 (5/22)

2012-02-01 00:19:17
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

テイラーによれば、ドイツ観念論期にスピノザがあれほど重要になったのは、この点で自然との一体性が重要だったからである。表現主義はこの観点から啓蒙主義的な自然の客体化を批判する。 (6/22)

2012-02-01 00:21:25
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

他方のカントは啓蒙主義の一帰結としての人間自身の機械論的認識への従属に対して人間の自律を強調する。テイラーの観点からして特に重要なのは、カントが現象界と叡智界を区別して、啓蒙主義の機械論を乗り越える人間の自律の根拠づけを行ったということ、 (7/22)

2012-02-01 00:23:29
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

さらにカントが自律を徹底的に重視したために、人間の道徳的動機付けから現象的・経験的なものを排除し、道徳原理にも実体的な内容ある規範を与えず単なる普遍性の形式しか付与しなかったこと、その結果実践の領域において生じた無規範性という意味での空虚さである。 (8/22)

2012-02-01 00:25:31
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

この空虚さの問題を指摘したのがヘーゲルである。 さて、表現主義が自然との一体性を重視するのに対して、カントの理性の自律は自律のために自然的なものとの絶えざる道徳的闘争を要求する点で相互に背反する。テイラーがヘーゲルを配置するのは、 (9/22)

2012-02-01 00:27:35
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

この両者の対立関係の超克という文脈においてである。一方でヘーゲルは理性の自律を最大限重視するが、その自然に対して敵対的で、最終的には空虚にいたらざるを得ない点については批判する。 (10/22)

2012-02-01 00:29:38
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

他方で表現主義からロマン主義の潮流に見られる単なる感性の重視は理性の自律を破壊するものとして退け、またその潮流に属する無限の創造性の理念は、これまたカント的理性の自律と同じように空虚さに陥るものとして批判する。この両面作戦が帰結するものは何か。テイラーによれば、 (11/22)

2012-02-01 00:31:50
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

それは絶対的主体・世界精神が理性的必然性として全世界を展開することである。人間が理性によってその必然性を洞察し、自らを宇宙精神の媒体と見なすことによって、理性の自律を確保しつつ、その意志に内容が与えられ、 (12/22)

2012-02-01 00:33:56
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

これまた世界精神の自己展開に他ならない自然との対立も消滅するというわけである。 テイラーはもちろんこのようなヘーゲルの答え自体に現在も価値があるとは考えていないが、しかし、特にカント風の道徳性の空虚という問題を見て取り、それを越えようとした点、 (13/22)

2012-02-01 00:36:00
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

その問題意識には意義が大きいと考えていることは、結論的な章での以下のような文言に明らかである。引用しておこう。 「ヘーゲルはカントの道徳性や絶対的自由の政治に関する批判において、 (14/22)

2012-02-01 00:37:05
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

自由な自己と純粋な理性的意志の空虚性を暴露した。そして、彼は理性的意志の観念を放棄せずに、この空虚性を克服し、人間に状況を与えることを望んだ。これは人間が宇宙的理性――これはその分節化をそれ自身のなかから生み出した――媒介物であることを示すことによって、 (15/22)

2012-02-01 00:39:10
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

なされるはずであった。 (…)自己依存的自由の究極的空虚性が、ニヒリズムに通ずるように思われる。だから、前世紀の多くの哲学的思惟は、次の問題に没頭したのである。すなわち、自己依存的意志の主体としての自己の観念を乗り越えて、それがわれわれ自身の、 (16/22)

2012-02-01 00:41:15
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

またわれわれをとりまく、自然のなかに組み入れられていることを明らかにするには、どうしたらよいか。言いかえれば、どのように自由を状況のなかへ入れるか。」[『ヘーゲルと近代社会』邦訳p296]  かくしてテイラーのヘーゲルにあっては「自由は人間にとって、 (17/22)

2012-02-01 00:43:16
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

大部分は与えられている使命の自由な実現を意味する」。人間の自由とは世界精神の理性的必然性を洞察し、その媒体としてそれに参与することである。逆に人間個人の極端な自律、何ものにも依存しない価値の自己定立は自滅的である。 (18/22)

2012-02-01 00:45:25
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

この洞察こそがテイラーの共同体主義的発想の根幹をなしている。共同体等々は私たちの選択に先だって、もろもろの選択肢の価値を定義する地平として立ち現われるし、立ち現われなければならないのである。 「歴史を、自然を、社会を、そして連帯の要求をも考慮の対象から外し、 (19/22)

2012-02-01 00:47:30
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

この洞察こそがテイラーの共同体主義的発想の根幹をなしていると思われる。共同体等々は私たちの選択に先だって諸々の選択肢の価値を定義する地平として立ち現われるし、立ち現われなければならない。 「歴史を、自然を、社会を、そして連帯の要求をも考慮の対象から外し、 (19/22)

2012-02-01 00:49:32
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

自分自身のうちに見出されるもの以外は一切目もくれないようになれば、重要なことがらの候補となるものをあらかた摘み取ってしまうことになりましょう。歴史でも自然の要求でもいい、人間同士のニーズでもシティズンシップの義務でもいい、 (20/22)

2012-02-01 00:51:35
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

神のお召しでもいいしここにあげた以外の何かでもいい、とにかくそうしたものが決定的な重要性を持つ世界に生きる時、そしてそのときにだけ、わたしは自分のアイデンティティを、それも陳腐ではないアイデンティティを、自分の力で定義することができるのです。」[ (21/22)

2012-02-01 00:53:38
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

『ほんものという倫理』邦訳p53] (22/22)。英語原文見てないですが本当にこんな感じで言ってるんですかね。さすがになんか節操なさすぎな感じがします。この最後の引用は。

2012-02-01 00:54:40