- JunNakagawaWork
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モデルが現実的事態の写像である限りでは、モデルには それ自身 意味は何もないのだ。そして、この つかのまの写像の中で事業構造を分析すること以外に重大なことは何一つないのだ。モデルでは、結論のなかに見出されるものは、すでに前提のなかにあったのである。
2012-01-16 06:02:30「概念」は我々をからかうのだ。「概念」は我々に現実を観ているような錯覚を与えて、現実の一面しか見せない。当地の風習は、切符を買って観光ルートの上を移動する遊覧バスに乗る人にはわからないものである。事業の中はエンジニアの考えているよりもずっと巧緻に満ちて込み入っている。
2012-01-16 06:03:32事業の大まかな「概念図」を見せられると私はいつも遊覧バスを思い起こす。重立った観光地をザッと見せてはくれるが、当地での生活がいかに営まれているかを知る由(よし)もない。慌ただしい観光の後で私がいつも感ずるのは疲労感だけである。
2012-01-16 06:04:31モデルを構成するということは、グラフを作図することだ。印象を書き下ろすのとは訳が違う。だから、事業というものを忠実に写像しようとすれば、「論理」の下稽古を積まなくてはならない。モデルを構成するという事は、SE たちの思うほどそんなに刺激的なものでもなければ退屈なものでもない。
2012-01-16 06:04:58われわれは現実的事態をモデル化するが、それは現実のなかで流れている確かなものを静かな「論理」を頼りにたぐり寄せて、なんとかして われわれに わかるものにしたがっているからである。
2012-01-17 10:06:08論理規則は、われわれの合意だけで流通する信用取引である。そして、「論理」を愛するためには、「現実」を重要視する必要があり、「現実」を丁寧に観る必要がある。
2012-01-17 10:07:06私は、「経験」だけで満足するような自信家ではない。私の抱く「概念」よりも「論理」の真理性のほうが尊いのだ。モデルは「論理」を以て構成される──頭の中の はかない映像と定まらない遠近をもつ想像で以て描かれるような概念図ではない。
2012-01-17 10:08:41モデルを構成する目的とは、現実的事態の意味を知るというただ一つであると私は信ずる。モデルも一つの世界である。この形式的世界を構成してみて、現実について普段考えていた事が印象にすぎなかったと気がつく。
2012-01-18 06:54:30だいたい「理論」というものは、「論理」をわかるようになって「現実」を丁寧に観ることができるようになってから使うのが本当であって、自らの「経験」を恃(たの)んで経験則を拵(こしら)えるのとは、そもそも、「現実」に対する接近法がちがう。
2012-01-18 06:54:55われわれが「論理」を望むのは、自分の bias を除くためではないか。つまり、自分ひとりの「概念」だけでは証明できない事を、「現実」から借用して また「現実」へ返す、ということではないか。
2012-01-18 06:56:55もっともすぐれたモデルとは、私の信ずるところでは、普通の科学のように「論理」にもとづいた写像(現実の形式的構造)のことである。「現実」に逆らわない整然とした形式である。押しつけがましい「概念」で固(かた)めた大雑把な概念図とは似ても似つかぬ構成である。
2012-01-19 06:55:40モデルは、けっして、杓子定木の構造ではない。それは一つの形式から他の形式への写像であり、「論理」に依る翻訳であるにすぎない。
2012-01-19 06:56:20「モデルは『論理』に依る『現実の写像』である」という命題から、次の帰結が出て来る──「最初に取り組むべきは構文論であり、それから意味論があるのだ」。このことは、意味論を概念記述と混同することに対する抗体として堅持しておくべきであろう。
2012-01-19 06:56:48事態の可能性(それが他の様相になりえたであろう網羅性)を配慮できないのは、自分の思考の中に「論理」がない [ 論理規則を使っていない ] 証左である。少なくとも、補集合を考えることはできる。そして、主選言標準形くらいは考えてほしい。さらに、ロジシャンは「対偶」を使う。
2012-01-21 09:31:20けばけばしい化粧をしてはいるが「現実」の匂いのない概念図を私はわんさと目にしてきた。だが、モデルとは、元来、その構成の中に生々しい匂いをもった現実の素顔である。装飾を排除するという事は、元来、科学の特性ではないか。
2012-01-22 10:37:32モデルは、「論理」が咲かせる花 [ 導出的なL-真 ] であり、そして「現実」が実らせる果実 [ 事実的なF-真 ] である。「情報科学である」と看板に書けないようなモデルは、本物ではない。私概念(経験則)の飾りが大きな重みをかけると、その看板は破壊される。
2012-01-23 12:21:59われわれが「論理」と呼んでいるものは一種のルール、「形式」に関する恒真性の規約、「真」をやりとりすること、つまり、「概念」がつねに「真」になっていることを約束する取引である。「論理」は構成制作の中にだけ存在する。「構成」の無矛盾性は「論理」が止(や)むところで消え去る。
2012-01-24 10:21:46「経験」に依る論は時に卓見となるが、経験則で「現実」を見る人は、その経験則(自らの才識)を確認しているにすぎない。経験則は一つの知恵であるが故に、明快な外観を呈するが、足枷にもなる。「私は以前こうやって成功した」──エンジニアの私は、当然ながら、その成功の「前提」を問う。
2012-01-25 11:42:16あなたが多くの経験を持っているか持っていないかは、問題ではない。私の目をつけるのは、ただ あなたの「論理の使いかた」だけだ。なぜなら、「現実」を形式化して私概念を正そうとする、「論理」というものはそういうものではないか。
2012-01-26 18:29:45どうして論理規則がわれわれの思考を整えるような仕組みにできているのか、私にはどうしてもわからない。論理規則がそんなふうに作られているのだろうか、それともわれわれの思考がそれ以外にはちゃんと作用しない代物なのだろうか。
2012-01-27 03:48:43