2010年5月29日

チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』 についての、岡﨑乾二郎、桜井圭介の対話

5
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

チェルフィッチュ は徹底的に、演劇=舞台の本質をついていた。

2010-05-18 02:20:12
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

3部構成が構造的に弁別されすぎているキライがあった(身体の動きも語りの特徴)が、それは演劇として成立させるための賭けとして成功していたと思える。

2010-05-18 02:28:37
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

(当たり前の事を書くならば)、まず基本として、ある人間の行為を演技か/まじか、で弁別するのは、行為する本人の意図(自由意志)によるかどうか、という基準で、行うことはできない。ということがある。

2010-05-18 02:32:54
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

(いうまでもなく)人は自分が話している言葉が何を意味しているか、すべてを理解できない(そもそも、実際に何を言おうとしているのか、理解せずに、すでに話している)。からである。

2010-05-18 02:33:36
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

人は自分が いかなる行為、振る舞いを何しているのか、明確に把握できないということと同じ。

2010-05-18 02:34:03
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

小説であれば、地の文があり、あるいは戯曲であればト書きがあり、つまりは(客観的に)状況を記述する、メタ言語がありうる。

2010-05-18 02:35:56
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

だが、舞台の上には、もはやト書きはなく、メタ言語はない。これが演劇=舞台の特質=可能性である。そこに特権的(選ばれ、選ぶ、最終審級としての)視点がない。対して、映画にも小説にもそれはある。(美術でははずすことができるが、無自覚だと要請され、そのまま現れてしまう)。

2010-05-18 02:39:43
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

プロット(構成)があり、プロットが形成する状況がある。そしてその状況の中にありながら、それをはっきり記述しえない、むすぼれるだけの言語があり、身体があり。つまりこうした事物=オブジェクトたちが舞台の上にあり、その事物たちのむすぼれ、がまた状況に差し戻され、状況は一層強化される。

2010-05-18 02:51:01
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

演劇において、言葉を理解するということは、それほど意味を持たない。

2010-05-18 02:53:21
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

そもそも言葉を発する人が、それをまだ理解していないから話すのであり、演技(ミメーシス)されるのは、その話の内容ではなく、その盲点を、ふくんだ話すという行為そのものなのだから。

2010-05-18 02:56:18
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

そういえば、無知の知 というソクラテス=プラトンの対話法は、アリストテレスが見抜いたように演劇の核心。そしてもちろん漫才 の核心でもある。

2010-05-18 02:57:27
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

漫才は ほんらい哲学的でなければならない。そしてシリアスである。

2010-05-18 02:58:24
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

なぜ、モツナベか、あるいは23度設定で警察を呼ぼうとするか、なぜ、セミの話にこだわるか、

2010-05-18 03:05:24
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

これは駄洒落として容易に落ちがつくのだが、その落ちはあまりにシリアス。だが話している本人たちは、そのオチに気づいておらず、ただ、なぜそれを主題に話が堂々巡りしてしまうのかもわからず、ただ堂々巡りしている。それがアリストテレスのいう悲劇の構造そのもの。

2010-05-18 03:08:33
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

これで笑える人は天才だし、これをダンスという人も相当なもの。なぜなら、これが悲劇なのは、はじめから答えが出ている=あらかじめ運動が停止している=つまり、死が 明示されている、それを気づいているのに気づいていることに気づかない身体が舞台の上に並んでいるからである。

2010-05-18 03:11:16
桜井圭介 @sakuraikeisuke

@kenjirookazaki そうした演劇は今日ほとんど見当たりません。その意味では、今それを行っているものは「ダンスである」と言ってもいいのではないか、と思うのです。途中ですいません。待ち切れなかったもので。

2010-05-18 03:11:59
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

元も子もないが、第一部は、まるで葬式で 次は誰かな、わたしかな、といっている場面のようなもの。第一部でいちばん台詞も身体も音楽のようにスムース(機械的)でヨドミナイ、のは、ゆえに極めて効果的であった。冬までモツか?

2010-05-18 03:14:40
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

二部、にもかかわらず正社員、冷房23度で会社止めようかと相談。対して(セクハラか)警察呼ぶか? 会社止めろ、警察呼べば、終わりだが、ゆえに 23度を享受しつづける正社員。 三部、セミについてはいうまでもない。ここで話はいっさいリタンダントなし。

2010-05-18 03:21:51
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

あえて暗くツイートしている。いつも以上に明確。セミやモツナベが駄洒落にすめば、むしろ成功(ぎりぎりセーフ)。シンボリックになったらアウト。うまくいっているのは、話している当人、舞台の上のすべての人がそれに気づいていないようにふるまっているから。せいぜい駄洒落ですんでいる

2010-05-18 03:25:16
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@sakuraikeisuke  ダンスである、という勇気があれば、いうのもかまわないでしょう。ぼくにはないですね。

2010-05-18 03:29:50
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

あえて、いう必要も感じません。

2010-05-18 03:30:30
桜井圭介 @sakuraikeisuke

@kenjirookazaki ダンスではない、という理由がわからないのです。

2010-05-18 03:33:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

身体 (身振り)が突出すれば(目立てば)ダンスだという単純な話にはしたくないので用心すべきだと。劇こそ、身振り(その無意識的=無意図的な表出)の芸術だったわけだから

2010-05-18 03:35:00
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

言語(という明証性)への問い、が演劇の基本です。身振り、は言語の無意図性(無意識的表出)を露呈させるためにこそ組織される。ここに感情が充填(感情移入)されてしまいがちなのが演劇の陥穽ですが、すぐれたプロットはこれを回避させ、別の認識を開く。

2010-05-18 03:42:07
残りを読む(71)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?