まず上映前にこれまでの30回近く、述べ2000人動員した『哲学への権利』の会場の様子が流される。 『哲学への権利』はDVDつきの書籍で12月に頸草書房より刊行されるみたいです。
2010-05-29 21:30:10国際哲学コレージュとは①アソシエーション・・・市民団体であり公に認められている助成金もある②通過する場所・・・教育機関からは「周縁的」であるし6年で立ち去ることが義務。③無償性・・・カリキュラムによって講師は選別されるが無償。しかし若手にとって発言を公的に伝えらえる場
2010-05-29 23:50:22『哲学への権利』は「国際哲学コレージュ」のドキュメンタリー映画。「国際哲学コレージュ」とは何か?それはデリダが理念とした「制度自体の脱構築」の実践の場である
2010-05-29 23:53:20制度の脱構築とは何か?「国際哲学コレージュ」は在野の市民団体であるが、国から助成金を貰っている制度の上に立っているので完全な在野でもない。周縁的存在である。現在の日本、韓国やスペインなどで若手のポスドクの人達が実践しているような研究の「場」とも違う。
2010-05-29 23:54:00「哲学」を孤高の立場でなく、外に向かって開いていく実践の場。その点で哲学は誰に対しても開かれているが我有化はできない。「国際哲学コレージュ」は思考の実験場であり、「~の哲学」ではなく「哲学と~」という学際的な特徴がある。
2010-05-30 00:08:35ここでいう「学際的」というのは「カルチュラル・スタディーズ」ではない。「哲学と技術」「哲学と法」など交差しているが根本に哲学を置いている。だが、重要なのは「哲学と哲学」である。哲学自身をつねに問い危機にさらしていく「活動」としての側面が強い
2010-05-30 00:19:14デリダの大学批判は、カリキュラムを事前に作り「先取りされた目的」への批判とカルチュラルスタディーズのドグマ化への批判。哲学の「学際性」とは何か?それは他の分野の意見を取り入れて哲学を補強することではない。哲学が哲学であるために孤立してはならないということ
2010-05-30 00:27:03「国際哲学コレージュ」の理念には、理性は「合理性」だけではない。つまりジャン・リュック・ナンシーが言うように[ratio]は理性の全てではないという問題意識が共有されている。大学の危機とは評価と効率性が重視されている現状にある。
2010-05-30 00:36:22「国際哲学コレージュ」の理念にとっては哲学を守るということが「抵抗」なのである。みずからの場を維持するために戦う。多分これは私が思うに素朴な左翼的文脈の「抵抗」ではない。むしろ『知のオデュッセイア』(小林康夫)に書かれている「哲学」の態度に近い。
2010-05-30 00:43:54哲学者には放浪者の伝統があり、過去の時代からノマド的であり世界市民的であった。「場」の問いが難しいのはそれが現実的でもあり流動的であるから。同じように「国際哲学コレージュ」は現実の承認された公共の場所でもあるが「非場所」でもある。
2010-05-30 00:51:31「国際哲学コレージュ」の問題点とは何か?それは誰に対しても開かれ無償であるから参加者のレベルが多様であり授業が難しいこと、海外の学者を呼んでもネグリやアガンベンのようなスターの時には講師も参加するが基本的に共同体としての結束が弱いこと
2010-05-30 00:56:27最大の困難は「国際哲学コレージュ」はつねに「国際哲学コレージュ」とは何かという問いを続けていくことにある。過去にはドゥルーズ主義、分析哲学、現象学的思考などが主流となったり衰退したりした。以上からわかるように「国際哲学コレージュ」はデリダが創設したがデリダ派ではないこと。
2010-05-30 01:01:00カトリーヌ・マラブー「デリダが凄いのは哲学に対して恐れることがなかったこと、その勇気が素晴らしかった。国際哲学コレージュを創設したときも自分に敵対する人でも講師に選抜していった」
2010-05-30 01:04:03そして国際哲学コレージュが軌道に乗るとデリダは友好的意味で離れていった。英米系哲学者や脳科学&認知科学が優位なアメリカの学会から「国際哲学コレージュ」がデリダ派だと思われないために。「国際哲学コレージュ」はデリダの作品でもあり、彼の書物がコレージュに奥行きを与える
2010-05-30 01:07:46ベルクマンは2003年デリダが既に病を患っていたときのヌールデルマンでの講演会の様子を語る。そのときデリダはカントの『啓蒙とは何か』を語っていた、未成熟minorityの責任というものについてカント的意味合いにおいては未成年でも責任はある、と。
2010-05-30 01:12:35「あえて賢明であれ」、『国際哲学コレージュ』は同じように未成年である。しかし責任がある、それは「哲学の立場を守る」ことだ。
2010-05-30 01:15:34上映はここで終了する。最後にはインタビューを終えた人達と握手する様子が流され、最後にデリダの発言が出る。「脱構築とは制度という概念がつねに問題となる制度的実践である」――ジャック・デリダ
2010-05-30 01:17:14とりあえずここでまとめを終了します。長々と書きましたが、記憶を頼りに汚いノートの断片から書いたので取りこぼしもありますし、インタビューの熱意とか最後の握手とか「映画」としても素晴らしい出来なので是非見てください!書籍つきDVDは12月に頸草書房から発売するみたいです。
2010-05-30 01:20:37友人の発言→カントのいう「あえて賢かれ」を言い換えたコレージュのいう「あえて脱構築せよ」の、「あえて」の言葉の使い方は宮台真司的な意味ではなくて、むしろ、責任を引き受けるように、勇気をもって活動する覚悟と共に、という感じの意味だよね。
2010-05-30 01:23:36上映終了後の講演会では「国際哲学コレージュ」の実際の映像が無いのは何故?みたいな話があったが許可が取れなかったそう。だから理念だけを抽出したらしい。昔どこかの映像で見た気がするんだよなあ・・・。
2010-05-30 01:25:53思い出した。多分コレだ。「デリダ、異境から part1/6」 (13:53) http://nico.ms/sm3151204 ちなみに『哲学への権利』のHPです→http://rightphilo.blog112.fc2.com/
2010-05-30 01:27:57