加藤典洋『日本の無思想』まとめ

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H.Takano @midwhite

表と裏、公と私、外と内といった古来から日本に存在した諸概念と「建前と本音」は全く異なる。前者は表、公、外が「主」であり、裏、私、内が「従」であるが、後者は逆に表側の建前が「従」であり裏側の本音が「主」である。そしてこの逆転現象は戦後に起きた。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-01 13:51:49
H.Takano @midwhite

戦後の日本には「天皇」「憲法」「死者」との関係における三つの「切断」を経験した。天皇は人間宣言により神から人間へと降格し、平和憲法は戦勝国の武力により押しつけられた。そして白人の植民地支配の打破という正義のために死んだ死者の大義は無碍にされた。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-01 13:56:39
H.Takano @midwhite

袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様』によれば、勝者の象徴だったマッカーサー連合軍司令官のもとに、日本の王になってくれという手紙が夥しい数で国民から届けられた。また多くの日本女性から、あなたの子供を産みたいという手紙が殺到したという。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-01 14:02:21
H.Takano @midwhite

戦後の日本人は一度、明日の食料も保証されない生命維持ギリギリの水準まで落ちた。そんな中に今や人間となった「天皇」に威力など残っておらず、日本人はイデオロギーではない「物質主義」「科学主義」「進歩主義」の化身たるアメリカに出会ったのである。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-01 14:06:00
H.Takano @midwhite

日本人はそこで一度アメリカに屈服したが、やがて米軍の占領が終わると自尊心が再び頭をもたげてきた。日本人は屈服の事実を消し去るため、「建前」では帰依したものの「本音」では信念を捨てなかったと自ら信じ込んだ。ここに「本音」が新設されたのである。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-01 14:31:48
H.Takano @midwhite

ドストエフスキー『罪と罰』の主人公の青年が老婆を殺したのは、思想表現かもしれないし、心理主義や物欲表現かもしれない。それは決定不可能である。しかし、これを思想表現であると捉える視線が無ければ、そもそも思想は存在できない。信仰、信念も同様である。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-05 23:31:11
H.Takano @midwhite

人間の心を捉えようとレントゲンにかけても、肋骨の連なりしか見えない。それは嘘ではない、真実である。しかし真実だからといって、それが心など存在しないということは意味しない。心を捉えるには、別に視線が必要なのである。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-05 23:42:18
H.Takano @midwhite

本音が「口に出してしまった本心」から「口に出さない本心」へと大転換を遂げた後、日本人は何も口に出さずとも「考えている」と見なされた。しかしこの状況が続けば、誰も「思ったことを言うこと」に敬意を払わなくなり、やがて言葉は意味を失い、死んでしまう。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-05 23:54:31
H.Takano @midwhite

ハンナ・アーレントによれば、言葉が死ねば人間から公的領域というものが消える。公的領域が消えると、生きることの意味が消える。その結果、人は単一なものに対する対抗原理を失い、最終的にはある種の全体主義を引き寄せてしまう。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-05 23:57:35
H.Takano @midwhite

公共領域という世界を初めて作りだしたのは古代ギリシャ人であるが、彼らは専制国家ばかりだった古代世界に初めて「人が人との間で作り上げる空間」を創り出した。そこでは人を動かすのに、命令ではなく説得、つまり力ではなく言葉を使うことに価値が認められた。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:01:50
H.Takano @midwhite

アーレントの言う公共領域の最も分かりやすい例は、テーブルである。それがあるために人が集まり向かい合い、またそれは一人一人を集めつつ、隔てる。共通の議題が生まれ、それに人が参加し、意見を交換し、またそこを離れる。それは人々を分離し、かつ結合する。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:07:42
H.Takano @midwhite

アーレントによれば、考えられたことは発語されなくては考えられたことにはならない。しかし考えられたことが発語されずとも一応、考えられたことになるのではないだろうか。この考え方こそ、公的領域に対する私的領域というヨーロッパ近代の新しい在り方である。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:28:32
H.Takano @midwhite

今世紀前半に活躍したヨーロッパ随一の知識人ポール・ヴァレリィは二十代の初頭、イタリアのジェノヴァ滞在中に一夜で「知的クーデタ」を経験し、以後の生き方の大筋を決めたという。その時のクーデタの内容をもとに書かれた小説が『テスト氏との一夜』である。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:31:49
H.Takano @midwhite

その作品の中で語り手の青年は、テスト氏という奇妙な人物に会う。彼は実に様々なことをずっと深く考えている。しかし彼は、それを口に出さない。彼によれば、一人の人間にとって考えることの基本は自分との対話にあり、それを世に発表することは逸脱であると。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:35:44
H.Takano @midwhite

ノーベル賞を受賞したようなどんな天才も、自分の考えや発見をつい人に話さずにはいられなかった訳である。本当に強力な頭脳の持ち主、即ち「最も鋭敏な発明家」「思想を最も正確に認識する者」は、「無名の人々」なのではないか、と青年は考えるのである。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:40:17
H.Takano @midwhite

私的領域を極限まで突き詰めると、このヴァレリィ的な考えに辿りつく。彼が自意識の究極の先端に登りつめようとしていた時、ヨーロッパではユダヤ人絶滅政策というとんでもないことが起きていた。その野蛮な動きは、彼の知的作業をも土砂とともに押し流した。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:50:38
H.Takano @midwhite

20世紀の動きは、この近代の私性が最終的に全体主義など社会的な猛威に対して無力であることを露呈した。発語の意義、公共性の意味が見失われたことが、ナチスの野蛮の制覇の一因だったのではないか。それがアーレントによる20世紀的知性への破産宣告だった。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 00:54:27
H.Takano @midwhite

初の公的空間を作り上げた古代ギリシャにおいて、オイコス(=家)は最小単位として残った専制的な空間だった。そして各オイコスから家長が貧富に関わらず都市空間としてのポリスを形成する。古代ギリシャはポリスとオイコスという二つの原理からなる空間だった。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 01:10:31
H.Takano @midwhite

古代ギリシャにおいてオイコスは私的空間、ポリスは公的空間であり、この二つは完全に分断されていた。ポリスは言葉と活動を駆使して自らの考えを提示し、政治を通じて新しい価値を創り出すという人間の掟に支配されたが、一方でオイコスは神々の掟に支配された。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 01:30:56
H.Takano @midwhite

アーレントによれば、人間の本質は彼が一人では生きられないことのうちにある。他人の考えを見聞きし、その他の人間との関係を生きることが彼女の考える人間存在の本質である。それを彼女は複数性の経験と呼ぶ。それを可能にする空間が彼女の言う公的領域である。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 01:38:30
H.Takano @midwhite

古代ギリシャにおいて公的な空間に身を置くということは、「支配もしなければ支配されもしないこと」であり、それを可能にし、そこでまたさらに展開されるのが、命令ではなく説得を基礎とした人間の言動(レクシス)であり、また活動(プラクシス)であった。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 01:40:51
H.Takano @midwhite

私的であるとは、公的であることを剥奪されている状態を意味する。公が先立ち、それが奪われて私が出現するのである。privateには「欠如」を表すprivativeという観念が含まれ、またフランス語でもpriveという「奪う」の過去分詞が使われる。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 01:48:50
H.Takano @midwhite

公的領域と私的領域との対照は縦型の上下関係であり、この関係を示すのは古代ギリシャにおける対照ばかりではない。それを最もよく表すのは政治と経済の関係である。政治とはポリスで行われることであるが、経済とはオイコスにおけるノモス(=法)である。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 02:14:19
H.Takano @midwhite

economyの語源はオイコスのノモス、即ちオイコノミーであり、経済のそもそもの起源は家の法、家政なのである。今では政治と経済の境界は曖昧になり、政治的経済という用語さえあるが、この意味連関は未だ生きている。それが今、見失われている。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 02:19:09
H.Takano @midwhite

アーレントによれば、人々は共通世界に関与する意欲と活動力に駆られてポリスの中で生きるが、対してオイコスの中では欲求や必要性に駆り立てられて生きる。つまり経済とは、人間の普遍の共通の本性に根ざし、生きるための欲求の充当に当たる行為の領域を指す。(加藤典洋『日本の無思想』1999)

2012-02-06 02:22:48