- asahiji_myoko
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「見仏」の流行をあまり良く思わない論調を時々聞くけど、僕は「見仏」も一つの仏縁だからぜんぜんOKだと思うんだけどなぁ。仏に興味がわくってすごいことだと思うもの。お寺側としたらそれを仏法を伝える=人々を救いに導く好機だと捉えなければ。それができないお寺こそ批判されるべきだ。
2012-02-06 23:26:23仏像を美術品や文化財のように安置しているお寺がある。礼拝の対象として荘厳されていない、日々の勤行がなされている気配のないお寺がある。お参りに来た人と対話しようとしないお寺がある。さらにはマナーが悪いからと参拝を拒否するお寺もある。そんな時、仏教者の勤めとは何かと考えてしまう。
2012-02-06 23:37:04お寺を守ることも大切、仏像を守ることも大切なのはよくわかる。でも一番大切なのは、お寺や仏像をつながりとして人を救うことにあるのは言うまでもない。救うって言うと大げさだが、ちょっとでもほっとできればいいのだ。何かやさしくなれるきっかけがもてればいい。
2012-02-06 23:41:19そういうあたり前のことができていないお寺がなんとたくさんあることか。それこそお寺や仏像が文化財という名のハコ、モノとしてひたすら守られることが至上、というような空気感がある。言い方は悪いがお寺や仏像をうまく利用したソフトをもっと考えていかないと。これは私自身の命題でもあるが。
2012-02-06 23:49:22@otyawanya 同意です。どのような動機からの見仏であっても、そこで感じる事、伝わる事は、流行や批判の及ばない領域にあるような気がします。 お寺さんでお香作りをする時は、集まってくださる方々と仏様をとうして香縁が結ばれ、私にとっては得難い学びの機会、感謝の時です。
2012-02-06 23:33:19@otyawanya 昔はもっとお寺は、人が集まる所だったんですよね。縁日とか娯楽とか。字が読めない人が勉強に来たり、名前をつけてもらいに来たり、人生相談に来たり…和尚の人徳にもよりますが、何かと人が集まれる所として復活すると、お寺と人とがまた、近くなれるのではと思ったりします。
2012-02-06 23:47:42@ciaokyoto 現代は教育が悪いのかお寺が悪いのかわかりませんが、お寺が気軽なものでなくなってしまったような気がします。昔はもっと純粋に、難しい教義や宗派関係なしにお寺にお参りして日々の安寧を祈り、感謝していたと思うんですが。その復活のきっかけが見仏でもいいと思っています。
2012-02-07 00:08:41@otyawanya どちら様も、みょうこうさん。のようなご住職なら、仏縁ももっと広がると思うんですがね。
2012-02-07 00:03:15@otyawanya でも、仏教サイト系のイベントで仏像の前でお勤めをしていて、中の人たちから珍妙な視線を投げかけられたことも…。自分自身の勤行が下手くそなのは自覚してますが、その一件以来、人前でお勤めすることに、わだかまりのような部分があるのも事実です。
2012-02-06 23:36:51@newstool_1966 お経を読むのって難しいですね^^; 僕も大きな声で理趣経一巻唱えたいと思う事しきりですが、やはり観光寺院などでは周りの人のことが気になって小さな声で唱えています。大きな声で読むかどうかも僕らの欲ですから、時と場合によって使い分けたらどうでしょう?
2012-02-06 23:59:14@otyawanya その時も普通にお唱えしていただけなんですが(汗 その時、こちらでは仏像は鑑賞したり薀蓄を披露したりする対象で、拝む対象ではないのかと思った次第です…。
2012-02-07 00:02:22@newstool_1966 それはお寺がひどいですよ。仏像を礼拝の対象とさせないなんてお寺のすることではないですよね。でもそんなお寺はたしかにいくつか存在する気がします・・・(ーー;)
2012-02-07 00:17:23@otyawanya 正式には「お寺が会場の仏像部系イベント」だったのですがね。で、スタッフにはお坊様もいたのですが…。それから、「仏教系サイトの催しでも、仏像部イベントのようなものには顔を出すまい」と誓いました。
2012-02-07 00:22:39@otyawanya そう思います。一番大切なのは哲学、そしてそれに触れるその人自身だと思うんですよね。釈迦が説いているのは自分自身、そしてその自分と人とのつながりそのものではないかと。仏像を拝むことで完結するのではなく、その先にあるものを大切にしてこその仏像だと思っています。
2012-02-07 00:18:24@butszo 日本の仏教は哲学という言葉よりもう少しおおらかな見えない力への信心から成り立っているのと思っています。これは神仏習合の根本でもありますが、見えない力への畏れ、それを鎮める仏、その化現としての仏像、そしてそれを拝みそのおかげで生きる人。単純ですが大事だと思います。
2012-02-07 00:33:52@otyawanya ですよね。僕は日本人の良さは「受容」だと思っています。もともとあった自然への畏怖からくるアニミズムと、太古の昔の英雄への賛辞としての神道、そして仏教という哲学、それをしっかり受け入れるおおらかさ。これが日本人の良さかな、と。大切にしたいと思います。
2012-02-07 00:47:03@otyawanya @butszo 見仏という言葉は微妙に苦手なのですがw 哲学という言葉を与えることもなく、路傍の石仏や祠に手を合わせるような人のある風景が好きですし、豊かな気配に包まれる杜が好きですし、人の営み(祈りも造仏も)の中にある仏像だったり社寺だったりが好きです…
2012-02-07 00:42:26@anzanshi_ymd 「見仏」にしろ「癒し」にしろ「パワースポット」にしろ、全ては商業的なコピーですから、僕はあまり気にはしていません。ただそれで真実が軽薄になってしまったら問題です。でもそれも受け入れる側がいかに大事なものへ引き入れるかにかかってくると思います。
2012-02-07 00:50:25@otyawanya そうですね、商業的コピーに惑わされるようなことがないように、受け入れ導く側の言動はとても重いものになる感じはしますね…
2012-02-07 00:53:46@otyawanya NHKだったかな。世論調査で仏教に対するイメージは仏像やお寺ブームに乗じて上がっているのに対して、お坊さんに対するイメージはめちゃくちゃ悪いとの結果。一般人以上に豪遊してキャバクラ行って酒呑んで拝金なイメージ。
2012-02-07 01:17:03@otyawanya 全部の坊さんじゃないにしろ、やはり折角仏教への関心が高まりつつある世の中なので、坊さんのイメージをあげる努力を一人一人がされないといけないのかなとは思います。結果的にやはり仏教と民衆が疎遠な世界を作り出してしまうことになるので。
2012-02-07 01:23:20@JILLE_Bear 破戒僧的なイメージ強すぎ!^^; 世論調査の回答者が実際どのくらいお坊さんと接しているのか分からいけれど、そのイメージはどうやって作られたんでしょうか。悪いお坊さんが目立つのはしょうがないですが、寂しいですね。お寺はもっと人を助ける活動に邁進しなければ!
2012-02-07 01:25:42@otyawanya皆がみょうこうさんのようだったらもっと仏教身近なんでしょうけどね!私自身は研究の関係で仏教もお坊さんも身近ですが、一度田舎の葬式の手伝いで、酒持ってくるのが遅いとヘビースモーカーの生臭坊主に怒鳴られ、これがいわゆる坊さんのイメージかと体感しました笑
2012-02-07 01:39:45