災害遺構と地域と防災―それぞれの「時間」と感情、モノのちから―

東日本大震災から、もうすぐ一年が経とうとしています。復興計画はまだ先が見えない部分もありますが、瓦礫の撤去やインフラの整備は、確実に進んでいます。そんな中、津波によって喰われてしまった悲惨な状態の建物もまた、解体され、消えつつあります。もちろん、土地の再利用のために当たり前のことですし、心情的にも当たり前のことだと思います。しかし、自然災害によって被害を受けたモノ(物的証拠)を残す試みは、日本中で例があり、「災害遺構」と呼ばれます。これは、一種、100年スパンの人類のリマインダです。 今回は、その「災害遺構」に関する昨年11月からの議論を、私の視点からまとめてみました。※まとまったツイートをしている方のみ選ばせていただきました。ご容赦ください。
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あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

以下じゃないですね、以上ですね(^^;)

2012-01-04 01:44:30
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

はまゆりに関しては、撤去の理由が「危ない」だったので、たとえすぐ保存が決まってもいったん解体撤去→建物の補強工事→はまゆりを戻して危なくないように固定というステップは必要だったと思われます。それでもたぶん周辺は公園かなんかにして建物を置かないようにしないと次の地震のとき危なそう。

2012-01-04 01:45:42
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

「危ない」というのは正直致命的なんですよね(・ω・)模型という話も出てい るようですが、ぺらんぺらんの模型だったらわざわざモノにしなくてもARで十 分じゃないかと個人的には思うんですが。「実物の説得力」という文脈が模型だ とごっそり落ちますし…

2012-01-04 01:46:08
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

原爆ドームみたいに民宿内を展示室かなんかにできれば、多少の説得力を持ってお客も取れるかもしれませんが、ペイするところまでいくかどうか。それだけのコストを復興に併せて負担しながら、100年、200年先まで普通に生活していけるかどうか?これはもう、地元の人にしかできない選択でしょう

2012-01-04 01:47:17
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

石巻の鯨缶のほうは、幸い(?)県道のど真ん中ですし、ちゃんと固定してやれば済むと思います(・ω・)ただ、はまゆりと違って「もともとどこにあったんか」を効果的に見せる工夫がないとただのオブジェと化しそう…

2012-01-04 01:47:46
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

ま、長々書きましたが要は、そんなに気張らなくてもいんじゃね?ということです(・ω・)

2012-01-04 01:48:15
あさみ㌠(ダヨー) @adonis_fish

災害に遭わないための町じゃなくて生活していくための町なんで、無理したら続かないでしょ、という、防災クラスタの端くれにも文化財クラスタの端くれにもあるまじき態度でございますので、ご意見ご感想お待ちしております(・ω・)

2012-01-04 01:51:24

災害遺構があったとしても、「防災の限界」はある。
復興計画やインフラ事情も含めて、地域の生活の中で考えましょ、というお話でしょうか。

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火山を中心とする防災学の小山真人先生も、この問題に言及。
以下、ご自身のサイトのご指摘されている範囲の文章を転載させていただきました。既にサイトで読まれた方は、ここはとばして下さい。

月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

南三陸町の防災庁舎に限らず、三陸の津波遺構のほとんどすべてが消し去られようとしていることを批判しました。以下の連載記事の第78〜82回をみてください→http://t.co/1f2jSSiC

2012-01-27 21:52:07

伊豆新聞連載記事(2011年12月4日)
伊豆ジオパークへの旅(78)
 本連載の第51~74回では「防災」、つまり災害を未然に防いだり、その影響を最小限にするための理論や方法について語ってきた。しかし、災害が起きた後のことにも少し触れておきたいと思う。
 火山が噴火した場合には、それまで何もなかった場所に火口や溶岩台地ができたり、溶岩流が川をせき止めて湖ができたり、あるいは海だった場所に新しい陸地ができたりして地形が大きく変化するから、それらを元に戻すことは困難である。都市や社会のありかたを新しい地形に適応させていくしかないし、実際に古来より伊豆の人々は火山がつくった地形や産物をうまく利用し、それを生活の糧として災害を乗り越えてきた(本連載第1部第132~135回参照)。
 では、地震や津波の場合はどうだろうか? 地震にともなって広い範囲の土地が隆起・沈降することがある。たとえば、伊豆の東海岸には隆起した海岸地形が見られ(第1部第113回)、さらにそうした隆起が何度もくり返されてできたのが須崎半島や初島である。また、内陸で起きる地震は、地盤をずらして地震断層を出現させることがあり、それがくり返せば大きな地形の段差や谷となる(第1部第102~108回)。こうした地形は、やはり「復旧」することが困難のため、後世の人々は火山地形と同様に、それらをうまく活用してきた。
 ただし、地震1回分の土地の変化は微小である場合が多いため、それらの復旧は比較的容易であり、実際に段差やずれを元通りに戻した例は多い。さらに、津波の場合は、建物が大きな被害を受けても地形自体が変わるということはめったにないから、意識して残さない限りは、津波の物理的痕跡は地表にほとんど残らないことが普通である。
 意識して残した伊豆半島の地震痕跡として有名なのは、函南町の「丹那断層」と「火雷(からい)神社」、ならびに伊豆の国市の「地震動の擦痕(さっこん)」である。函南町の2つは、1930年11月26日に起きた北伊豆地震の地震断層によってずれた石積みや石段を保存したものである(第1部第104回、本連載第26回)。火雷神社では、地震の揺れで崩れた鳥居も保存されている。また、「地震動の擦痕」は、やはり北伊豆地震の際に生じた激烈な震動の傷跡が、魚雷の表面に記録されたものである(本連載第21回)。「丹那断層」と「地震動の擦痕」は国指定の天然記念物にもなっている。こうした地震痕跡は、放っておけば修復されて完全に失われてしまうはずのものであったが、災害を記録して後世に伝えたいという先人たちの思いが結実して保存された。その結果、今では世界有数の災害遺構となり、ジオパークの見学スポットであるジオサイト候補地にも名を連ねているのである。

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伊豆新聞連載記事(2011年12月11日)
 津波に襲われても海岸の地形自体が変わることはめったにないから、津波の物理的痕跡は、意識して残さない限りは地表にほとんど残らないと前回述べた。伊豆半島の周辺海域には大きな地震と津波をたびたび引き起こしてきた震源断層があり、実際に関東地震、東海地震、神奈川県西部地震などによる津波被害が数々の古文書に記されている(本連載第1部第99~101回参照)。しかし、津波で被害を受けた建物はやがて解体・修復され、森や草地もよみがえった結果、そこが津波の被災地であったことを知る手がかりはほとんど見つけられない。巨大な津波は、まれに海岸付近の地形に大きな変化を与える場合もあるが、伊豆半島での確かな例はまだ知られていない。1854年安政東海地震の津波は沼津市下香貫に池を出現させたが、今は埋め立てられてしまった(本連載第37回)。
 前回述べたように、火山噴火や繰り返す地震は地形そのものを大きく変えることが多いため、風景を読み解くことができれば過去の災害履歴も知ることができる。しかし、津波の場合は、被災から長い時間が経過すると、その事実を風景から読み取ることは、まず不可能となる。つまり、後世の人々は、古老から教わったり書物で勉強したりしない限り、そこが津波の常襲地帯であることに気づくことができない。何らかの工夫をしない限りは、津波被災の経験と教訓は後世に伝わらないのである。
 このことに危惧を感じた人々は、みずから風景にそれを刻む術を考え出した。津波碑(ひ)である。津波碑のほとんどは石造物であり、石塔・石板・石仏などの場合が多いが、祠(ほこら)や神社を新たに置く場合もある。伊豆半島の海岸地域には、こうした数多くの津波碑が残されている。有名なものとしては、伊東市の行蓮寺や仏現寺にある1703年元禄関東地震の津波供養塔、下田市の稲田寺にある1854年安政東海地震の「津なみ塚」などが挙げられよう。行蓮寺や伊東市川奈の海蔵寺の石段には、言い伝えにもとづいて設置された津波到達高の石版表示もある。また、西海岸の例としては西伊豆町安良里(あらり)の多爾夜(たにや)神社の浪切不動尊、伊豆市土肥の波尻観音などが知られ、静岡新聞の連載記事「歴史津波に学ぶ」(本年5月18~27日)で紹介された。やや特殊な例としては、伊豆市小下田の三島神社がある。この神社は、1498年明応東海地震の津波によって被災した集落が神社より高い場所に移転したため、集落から道を下って参拝する珍しい「下り宮」となったことが、本年9月11日の本紙で紹介された。
 残念ながら、こうした伊豆半島の津波碑を集大成した資料は知られていないため、ジオパーク指針書でもその一部しかジオサイト候補地にリストアップできなかったが、いずれもジオパークの貴重な構成資産となりえるものである。

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伊豆新聞連載記事(2011年12月18日)
 津波碑というものは、物的な証拠が残りにくい津波の脅威を石造物などの目に触れやすい形で記録し、その事実を後世に伝えるものであると前回述べた。一方で、津波によって被災した建造物や物体を、そのまま保存して子孫へのメッセージとする考え方も成り立つ。この方が、石造物に書かれた文章よりも視覚的・効果的に津波の脅威を伝えることが可能である。

 地震・火山災害では、こうした被災遺構を保存して後世に伝える努力が広くおこなわれている。伊豆半島での地震遺構の例を前々回に紹介したが、さらに全国に目を向ければ、阪神・淡路大震災の液状化によって崩れた神戸港の桟橋を保存した「神戸港震災メモリアルパーク」や、同震災の地震断層とその真上に建つ民家を保存した「野島断層保存館」が有名である。また、噴火遺構の例としては、雲仙普賢岳の火砕流で焼かれた小学校の校舎や土石流で埋まった家を保存した例、有珠山の火山泥流で被災したアパートや火山弾に撃ちぬかれた幼稚園を保存した例などを挙げることができる。これらの噴火遺構は、いずれも今や島原半島ジオパークと洞爺湖有珠山ジオパークの目玉として世界中から観光客を集めている。伊豆周辺の例も挙げると、三宅島では1983年噴火の溶岩流で埋まった小学校の校舎や2000年噴火の泥流で埋まった鳥居を保存している。また、人災の部類に入るが、災害遺構が世界遺産になった例として広島の原爆ドームがある。

 豊富な地震・噴火遺構の実例に比べ、どうしたわけか津波遺構の例はほとんど知られていない。もちろん津波碑は伊豆だけでなく日本中に数多くあるし、津波で打ち上げられた岩(津波石)が保存された例も多い。インドネシアには2004年スマトラ沖地震の津波で乗り上げた船などを保存した例があると聞く。しかし、東日本大震災以前の日本で、津波で被災した建造物が保存されたという話をほとんど聞かないのである。
 津波の被災経験が後世にうまく伝えられなかった結果、子孫に大きな犠牲を生じることになった事例が、すでに知られている。1707年宝永地震の直後の大阪で、余震や火災におびえて運河上の船に避難した人々が、襲来した津波によって多数溺死した。ところが、ある史料によれば、この貴重な経験と教訓は、「遺族が心を痛める」という理由であまり語られなかったために、百余年を経た頃にはすっかり忘れ去られていたそうである。そして、1854年安政地震の直後に船上へと避難した多くの人々が、ふたたび津波の犠牲となったのである。さすがに、この二度の過ちを反省した大阪の人々は、そのことを石碑にしっかりと刻みつけて後世に伝えている。

伊豆新聞連載記事(2011年12月25日)
 3月11日の東日本大震災の津波にともなって、各地に大小さまざまな被災遺構が残された。それらは津波で破壊された建物、堤防、橋、歩道橋、線路などの建造物や、津波で運ばれた船、自動車、列車などの乗り物である。震災当時、こうした遺構は無数と言ってよいほどあったが、現在ではそのほとんどが復旧のために取り壊され、瓦礫として撤去されてしまった。前回まで述べてきたように、災害遺構の少なくとも一部は保存され、後世の人々への教訓や警鐘として伝えていくべきものである。そうした努力がいつか実を結んで、同じ惨禍から子孫を救うことになる。今回の震災以後、その遺構保存の動きが全くなかったわけではないし、当初は保存に前向きな自治体の声も伝えられた。しかし、被災者感情への「配慮」や保存費用の問題などを理由に、次々と撤去作業が実行されている。

 たとえば、大津波に襲われて骨組みだけが残った宮城県南三陸町の3階建ての防災対策庁舎は、当初は保存して津波の被害と教訓を伝える意向を町長自身が語っていたが、その後一転して解体の方針が打ち出された。その理由は、遺族から「悲しみを呼び起こす」などの取り壊しを求める声が上がったからであり、町長は「一人でも取り壊しを求める声がある以上、尊重したい」と述べた(9月19日読売新聞)。

 だが、この理由は、まさに前回述べた大阪の津波教訓伝承の失敗、すなわち「遺族が心を痛める」という理由であまり語られなかったために、百余年を経た頃にはすっかり忘れ去られ、再び同じ惨禍が起きたことを思い起こさせるものである。また、住民全員の合意を必要条件としたら、残せる遺構はほとんど無くなるばかりでなく、復興方針そのものの策定すら難しいのではないだろうか。

 更地に異様な姿をさらす遺構は、今は目障りであろう。しかし、いずれ遺構には補強や化粧が施され、周囲に新しい街並みができていく。町がどこかに高地移転したとしても、遺構は公園化され、徐々に風景の中に溶け込んでいくだろう。
 確かに保存費用は、被災自治体にとって大きな問題である。そのような費用があれば、復旧・復興に回したいのが本音であろう。また、遺構を解体する場合には撤去費用を国が負担するが、保存のための費用は出ないという事情もあるという。だが、現実には、日本各地の地震・火山災害の被災地で、数々の遺構が保存されていることを前回述べた。要は、子孫を同じ惨禍から守ろうという決意と、いずれは流入する復興資金の一部を遺構保存に活用したり、住民の合意を得たりするなどの調整努力の問題である。伊豆半島でも、災害が起きる前の平常時の今のうちに、遺構保存の方針や手順を住民合意のもとで作っておくべきだろう。

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伊豆新聞連載記事(2012年1月8日)
 3月11日の東日本大震災の津波にともなって、気仙沼港、仙台港、八戸港などの周辺陸上には、当初は多数の大型船が打ち上げられていた。あるものは斜めにかしぎ、あるものは横倒し、あるものは岸壁に突き刺さった姿をさらした。しかし、その後、修理可能な船は海に戻され、海から遠く運ばれた船は解体されて、そのほとんどは姿を消した。いくつかの船については、津波遺構として保存し後世に伝える案も出たが、結局実現されずに撤去が続いている。
 この問題がとくに顕著に表れたのが、陸に乗り上げた大型観光船「はまゆり」の保存をめぐる経緯である。「はまゆり」は岩手県釜石市が所有する観光船であり、震災当日は隣の大槌町の造船所で整備中であった。そこへ3月11日の大津波が襲った。流された「はまゆり」は、大槌町赤浜地区にある2階建ての民宿の屋上に乗り上げた。まるで人工的にきちんと載せたような奇跡的な姿はすぐに報道され、米国ワシントン・ポスト紙のウェブサイトにも掲載されて世界中を駆け巡った。何の説明がなくても、誰もが見ただけで何が起きたかを瞬時に理解できる第一級の津波遺構である。しかも、船はほとんど無傷であった。下の建物の補強工事をおこなった上で、そのままの姿を保存すれば、いずれは世界遺産となって世界中から訪問客が押し寄せたに違いない。慰霊碑にも復興のシンボルにもなりえただろう。
 しかし、残念ながら被災地となった地元に、その価値や意義を見通せる余裕はなかった。「はまゆり」を解体・撤去する方針が伝えられると、日本中から保存を要望する声が岩手県や釜石市に届けられ、160人を超える学識者の署名も集められた。もちろん筆者も署名した。共同通信社も4月16日の記事に「津波の爪痕 保存し後世に」などの見出しを掲げ、保存への呼びかけを全国に伝えた。関係者によれば、船を載せた民宿の所有者も理解を示していたとのことである。県庁や地元大学の内部にも理解者が現れた。ところが、そうした声は当の釜石市にあまり理解されなかった。結局、「はまゆり」は5月10日にクレーンで降ろされ、その後解体されてしまった。
 皮肉なことに、今になって住民の間から「はまゆり」を模造・復元し、取り壊されなかった民宿の屋上に再び載せて震災モニュメントとするプランが出ているが、船の模型復元のための巨額の資金調達のめどは立っていない(12月15日東京新聞など)。いったん地上に下ろすにしても解体せずに残しておけば、民宿の補強と設置の費用だけで済んだのに残念である。
 あまり想像したくないことだが、いつかは伊豆で再び津波災害が起き、こうした船の遺構が残されるだろう。その時が来たら涙をこらえて、どうかその一部をそのままの姿で残してほしいと切に願う。その決断が長い忘却の時を乗り越え、いずれ子孫の命を救うことになるのだ。

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T.INOKUCHI / 井口 隆 @nied_inok

人は忘れやすい動物。今は見たくない遺構も、時が経つと残せば良かったと思う様になると思う。その時後悔しても遅い RT @usa_hakase: Sponichi Annex 社会 http://t.co/zzFf7lAi 南三陸の防災庁舎、「美談」だけ残してやっぱり解体するのか。

2012-01-27 22:23:56

南三陸町の防災庁舎。ここで亡くなった長谷川さんの話。

T.INOKUCHI / 井口 隆 @nied_inok

@usa_hakase 災害遺構がどんどん解体・撤去されていることを残念に思っています。今や世界遺産にもなっている原爆ドームも当時は惨事を思い出すので取り壊してほしいという市民の声があり、広島市も保存には消極的だったらしい。核の残虐さを後世に伝える象徴として残せて良かったと思う。

2012-01-27 22:46:01

1/10-1/14日の短い間でしたが、わたしも被災地へ行って、災害遺構候補をいくつか確認して来ました。

ヤミラ @yummy_okashi

遺し方はいろいろあるんだ。地域にそくした丁寧な想像力で、その方法を考える段階ではないかと思う。 #震災遺構

2012-02-12 23:18:40
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