2012年2月16日

dongyingwenrenさんによる 「清末民初期の地域エリートの動態」紹介

2
安田峰俊 @YSD0118

清末民初期の地域エリートの動態―広東省順徳県を中心に http://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:41:48
安田峰俊 @YSD0118

光復後の広東社会は、以前にも増して匪賊による動乱に悩まされ、広東軍政府は清郷政策に手を焼くこととなる。光復時に発生した大量の民軍の解散、それに伴う民間への武器の流入、郷村旧来の統治秩序の崩壊などがその原因であったhttp://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:42:34
安田峰俊 @YSD0118

匪賊被害は、順徳県の場合、その多くが三合会によるものであった。三合会は、各 地で「開檯」と称する新会員の入会儀式を行い、その規模を拡大していった

2012-02-16 09:43:44
安田峰俊 @YSD0118

匪賊から郷村を守ろうとしたのは「郷勇」であった。郷村における防備手段「郷勇」の組織がこの時期特有の事例ではないことは、多くの研究によって明らかにされている。しかし、これに加えて広東における郷勇を考える場合には、宗族関係を意識する必要があるhttp://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:45:49
安田峰俊 @YSD0118

中国南部地域、特に珠江三角洲中部の南海・番禺・順徳及び三角洲東部の東莞、三角洲西部の四邑(台山・開平・新会・恩平)では、多くの村落が単姓を中心に構成され、清朝後期には有力宗族が租税徴収の仲介機能、市場の商業権独占、独自の武装組織を持ち、地域社会の中心的存在であったとされる

2012-02-16 09:49:16
安田峰俊 @YSD0118

清末における匪賊の活動に対し、各地の地域エリートは、団練もしくは郷勇を組織し、郷里防備に努めていた。そして、こうした組織は広東の郷村社会の 基盤である宗族結合が母体となっており、各宗族の指導者である地域エリートがその中心的存在となっていたhttp://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:50:29
安田峰俊 @YSD0118

広東軍政府は、民国初年において、各県で清郷政策を実施する一方、1912 年8 月頃から、地方自治政策を計画し始める。

2012-02-16 09:53:06
安田峰俊 @YSD0118

同年3 月3 日に中国同盟会が定めた「中国同盟会総章」の政綱第一項が「行政統一の完成と地方自治の促進」であるように、南京臨時政府は地方自治制度の実施に重きを置いており、また、その姿勢は袁世凱の北京政府でも基本的には変わらなかったhttp://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:53:50
安田峰俊 @YSD0118

(民国初期広東の各県及び郷村における地方自治組織)この自治会の特徴として、自治会の運営する図内の「義務教育」が「族規」、即ち宗族を中心に考えられていた。自治会が宗族を意識していたことが伺える。http://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 09:58:30
安田峰俊 @YSD0118

(科挙の廃止後)宗族を中心とする郷村社会において、省議会議員は、「郷村」 の代表としてではなく、「宗族」の代表として考えられていたのであろう。(略)宗族から議員を輩出することは、宗族発展の新たな方法としてとらえられていたのではないだろうか。http://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 10:00:09
安田峰俊 @YSD0118

広東軍政府は清末光緒新政の地方自治政策を踏襲し、各地に地方自治組織の設立を促したが、これは「家族自治会」という名称のように宗族を中心とする組織で(略)郷村の宗族集団からすれば、科挙及第に替わる議員の選出は、宗族発展の新たな手段であっただろうhttp://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 10:02:39
安田峰俊 @YSD0118

清朝期を通じて「自立」性を有して組織化・集団化を図った広東における宗族は、清末に到り、科挙という宗族を発展させる手段の大きな手段の一つを失ってしまう。そこへ「自立」を含意する「自治」という新たな宗族発展の手段を手にした。(続)

2012-02-16 10:04:04
安田峰俊 @YSD0118

彼等が清末民初期の地方自治政策に対して、肯定的に自治組織を設立していった背景には、辛亥革命という政治的な動態とはそれほど関係なく、一貫して宗族発展という恒常的な希求があったのではないだろうか。http://t.co/NfWKrcvt

2012-02-16 10:04:17

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?