推理小説の「論理」

ひとくちに推理小説の「推理」「論理」といっても、それが何をさすかは必ずしも明確ではないのではあるまいか。かつて都筑道夫が、表の論理と裏の論理という表現でそれをあらわしたことがあったと思う。
2012-02-22 20:14:50
手がかりに基づいて謎への答えを特定する一連の言説を「推理」と呼び、そこに機能する推論の規則を「論理」と呼ぶ。このような言葉の使い方には(推理小説の中での用語としては)異論がないだろう。都筑のいう表の論理とはそういうものだ。
2012-02-22 20:19:40
しかし、探偵役はふつう、手がかりに基づく推論だけを行うのではなく、推論の結果を前提にして、必ずしも根拠があるとはいえない説明をも繰り広げる。たとえば、手がかりによって犯人を指摘したうえ、動機については手がかりによらない憶測で説明するといった例は少なくない。
2012-02-22 20:25:24
しかし、後者の部分についても、事件に了解可能性を与える筋道という意味で「論理」が機能している。都筑のいう裏の論理がそれに当たる。このような「論理」もまた重要である。読者はこの「論理」によって事件の明確なイメージを抱くことができる。
2012-02-22 20:32:02
探偵役が明示的には述べない部分で「論理」が機能するときもある。というのは、読者は探偵の推理とその結論を明かされた、これまで読み進めてきたその小説の記述に照らして、その推理が整合的かどうかを確かめようとすることがあるからだ。
2012-02-22 20:35:06
そこでは論理学の法則とは異なった現象がみられる。この意味で、小森健太朗が提唱した「ロゴスコード」という用語は有用だ。ただ、それはまず何よりも、過去の「本格らしい本格」、クイーンやカーや横溝正史や高木彬光やの「論理」を批判的に再把握するために用いられるべきだ。
2012-02-22 20:45:00
また、推理が成立し、正しさを保障されるための規則の定立に向かうのではなく、「推理」の内にひそむ飛躍やごまかしが、読者によって受け入れられ、むしろ強い感銘の源にさえなってきたことの解明にまず向かうべきだ。
2012-02-22 20:51:31
たとえば、推理小説の登場人物は合理的に行動するだろうか。密室トリックを弄するより死体を見つからないところに埋める方が合理的だ、といった批判は昔からあったが、本格推理小説の犯人たちは、営々とトリックに浮き身をやつしてきた。
2012-02-22 21:01:28
大がかりなトリックほどばれる危険が多いはずなのに、こうしたリスクを顧みる犯人は少なかった。こうした面では、読者は登場人物に「合理性」を要求しない。しかし、別の局面では、つじつまの合わない部分を厳しく指弾することもある。
2012-02-22 21:03:25
いわばそこには暗黙のうちにダブルスタンダードが機能している。むろん、人によって、許容される不合理とされない不合理の範囲がまちまちでもある。推理小説の「論理」を考えるには、こうした現象にも向き合わねばならない。
2012-02-22 21:05:50
推理小説の「論理」について、ずっと私の考えの基礎にあるのは、ナルスジャックの『読ませる機械』の一文、「ポオの天才は必然性と決定論を混同するところにあった」(記憶に頼っているので引用不正確)というものだ。
2012-02-23 18:20:40
私たちは論理学や科学の助けを借りて、個々の推論では必然性に到達することができるかもしれないが、だからといって世界が決定論的に見通せるとは言えない。しかし、ポオは「混同」を、つまり、名探偵がすべてをお見通しであるような小説世界の創造をなしとげた。
2012-02-23 18:25:00
探偵の展開する論理は、論理学の法則や科学の知見と無縁ではない。矛盾した推論や物理法則を無視したトリックは読者の非難を浴びることがある。だが、昨日も述べたように、推理小説の推理が論理学や科学を一歩もはみ出してはならないとする読者も少ないだろう。
2012-02-23 18:31:11
より論理的であろうとする志向が推理を歪めることさえ少なくない。つまり、論理へのあこがれが決定論幻想を招き寄せる。たとえば、本格推理作家は無駄な記述をしない、と言われた時代があった。小説中のあらゆる描写が手がかりや伏線である小説こそ本格の理想だと。
2012-02-23 18:35:50
そんな小説はものすごく不自然だ。もともと、論理的であろうとすることと、すべてが伏線であるような小説を書くことは結びつかないのだ。しかし、そうしたあこがれが生じることは自然のなりゆきでもある。
2012-02-23 18:39:24
私が扱っているのは、あくまで「推理小説の論理」である。これを論じるに際して、論理学の言う論理や、われわれが日常的にイメージしている「論理」を参照しようとすることは、自然な考えではあるが本当にそれでよいのだろうか。
2012-02-24 20:55:47
つまり、対象は推理小説を読んでいるときに出くわす「論理みたいな何ものか」であり、その正体をさぐることが課題である。そうならば、出発点は、われわれが推理小説のあるページに「論理」がある、あるいは「論理が」機能していると感じるその経験でなければならない。
2012-02-24 21:01:13
無知な人間が現象学用語を振り回しているというそしりを覚悟でいえば、そんな経験を考察するにあたって、論理学の知見はカッコに入れなければならない。
2012-02-24 21:03:01
かつてシービオクは、シャーロック・ホームズの推理はアブダクションだと論じた。しかし、このような考えもまた、論理に関する推理小説外の知見をもちこむものであって、いま私が述べた観点からすれば、いったん排除されねばならないだろう。
2012-02-24 21:06:46
対象はあくまで論理ではなく「推理小説の論理」だ、といえば、いかにも閉鎖的な、推理小説の中だけで通じる議論をしようとしていると思われるかもしれない。しかし、逆である。
2012-02-24 21:10:04
推理小説にかかわる作家や読者が、「推理小説の論理」をめぐってどのように考え、感じてきたかを明るみに出すことによって、はじめて、人間の精神活動の一事例に関するレポートができあがる。推理小説に関する考察を、推理小説の外につなげてゆくにはこのルートしかないと思う。
2012-02-24 21:13:28
「推理小説の論理」を、論理学の論理、あるいはわれわれが一般に認識している論理と同視した上で、論理学的にここが間違っている、あちらが足りないと議論するやり方では、かえって、このようなルートは閉ざされてしまう。
2012-02-24 21:16:25
推理小説の論理の続き。おそらく推理小説の中で展開される論理において、類推の果たす役割は大きいはずだ。「AとBは似ている。だからAで起きたことがBでも起きたのだ」こういう論法に出くわすことが少なくない。むろん、読者も、それが確実な論証だとは思わないだろう。
2012-03-01 20:23:00