雲仙普賢岳、大火砕流から19年だよ!!

島原在住の炒飯が普賢岳噴火の思い出や教訓をざっくばらんに話したので読んでくれたら幸いです。 6月3日16時ころに黙祷してくれると更に幸いです。
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@simabara

【拡散希望】黙祷といえば、今日6月3日は雲仙普賢岳噴火で大火砕流が起きた日です!19年前の16時8分に火砕流が発生。地元消防団、マスコミ、火山学者等、死者行方不明者43名。

2010-06-03 01:49:10
@simabara

雲仙普賢岳の火砕流で死んだ火山学者、テレビとかで感動的な話としてたまに取り上げられる。帰還したマスコミ、奇跡の生還とか言われる。実は、避難勧告出てたのに火山学者とマスコミが避難しなかった。そのため消防団はその場を離れられず巻き添えで、というのが事実。これ島原の人なら誰でも知ってる

2010-06-03 01:59:02
@simabara

火山学者の後ろは安全だって思ってマスコミも付いていってた。それを守るために消防団がついてた。しかし火砕流で死亡。マスコミを送ってたタクシーの運転手が母の同級生らしいが、ハンドル握ったままの形で炭になってたそうだ。 小学校の同級生二人の父親が消防団で行ってて死亡してる。

2010-06-03 02:43:13
@simabara

冒頭のが一番有名な映像。火砕流は時速200kmの速度で数千度の煙が襲ってくるもの。正直、火砕流による被害はマスコミ・学者が引き起こした人災と言えるもの。今日を機会にいろいろ考えたい。 http://bit.ly/cKE9rN

2010-06-03 02:55:43
@simabara

報道では、火砕流で死亡したマスコミ関係者を英雄のように語ってるんですよね。島原市民からすると、消防団員の方が数倍英雄です!!消防隊員ではなく、地元民が本職の他に行っている活動の一環としての、「消防団」員が多数死亡したことに注意!!

2010-06-03 04:46:26
@simabara

当時、避難勧告は出ていたのですが、これは法的拘束力がなかったものでした。大火砕流で多数死傷者が出たことを受けて、法的強制力がある警戒区域が設定されたのです。しかし、これに不満をもつジャーナリストらが許可無く侵入し書類送検されたこともありました。

2010-06-03 04:50:06
@simabara

当時、取材競争が過熱していたそうです。一部の報道関係者は避難して無人となった家から電気を盗んだり不法侵入したりしていたのです。このせいで、マスコミがいたら警察や消防団員がいなくてはならない状況になっていた。19年前の今日、警察の避難指示も無視してマスコミは「定点」に居座ったのです

2010-06-03 04:55:38
@simabara

溶岩ドームといえば、チューリップのようにパックリ割れた上空写真を思い浮かべる人も多いかもしれません。あの写真は当然ヘリコプターからマスコミが撮影したのですが、いつ爆発するかわからない状況でヘリを飛ばすのは冷静に考えると危険ですね。自衛隊ヘリが灰によるトラブルで不時着したことも…

2010-06-03 04:58:13
@simabara

土石流ってのは雨が降るたびに起こるんですよ。火砕流はいつ来るか分からないし速度が速いのでその分怖い。そして、火砕流が起きるときは空が真っ暗になって、雷とか鳴るんです。すごい怖かった、まるでこの世の終わりだなって子供ながらに感じてたことを覚えています。

2010-06-03 04:43:42
@simabara

うちのばぁさんち、土石流で半分流されてたんやが、当然避難区域内やったわけですよ。で、家はカラの状態やったんだが、時々見に行ったら家の中に糞尿があるわけです。 どうやら復旧工事の方が催して勝手に入ってやったとのこと。電気泥棒とかもあったらしいし。 当時はいろいろ大変だったみたい

2010-06-03 02:21:43
@simabara

噴火当初、線香みたいな感じで山頂から煙が昇っていく様を、当時幼稚園に通っていた僕は祖父と一緒に見ていたのでした。それからどんどん噴火は激しくなり、避難。そして、土石流で住んでいた祖父の家は流されたのでした。祖父・祖母・母は泣いてました。

2010-06-03 05:03:45
@simabara

避難するに際して重要な家財道具は移していたのですが、ほとんどものはそのままでした。土嚢を1mくらい家の周りに積み上げて土砂が入ってこないように予防もしていました。しかし、自然は強い。全く意味を成さず、1階は全部埋まりました。それでも祖父たちにとっては思い出のマイホーム…

2010-06-03 05:06:13
@simabara

そんなところに、土足で勝手に入り込んで、用を足したり、窃盗をしたりする人もいたんですから驚きです。母は、土砂まみれとはいえ、長年住んだ家の中に他人の糞尿があるのを見て、市長に嘆願書を書いてました。

2010-06-03 05:07:34
@simabara

当時、阪神大震災より前だった。90年噴火だったかな。5年間噴火が続いて非難とか仮設校舎とか仮設住宅とか。 結構騒がれてたみたいで、やたら支援が来た。小学校の音楽室とか楽器がたくさんあって、全国から送られてきたやつばっかり。支援のありがたさは身にしみて感じたわけです。

2010-06-03 02:27:06
@simabara

当時、仮設住宅って出端だったと思うんだが、なかなか狭いんですよあれw 市内の学校には灰から逃れるため全部クーラーが配備されていて今でも稼働中。 今噴火は落ち着いて形上の復興も落ち着いてきた。人口は1万人くらい減ったままだけど、しょうがない。長かったからな。

2010-06-03 02:33:24
@simabara

今あの規模の噴火あってもあそこまで支援されないだろうなぁと三宅島とか見てて思う。 すっかり落ち着いた普賢岳は奇抜な形で素敵です。土石流で埋まった家を見ることもできます(中で人は死んでおりませんので安心してご覧あれ)。島原よかとこ一回きてみんしゃい♪…何を言いたかったんだ…俺は?

2010-06-03 02:37:34
@simabara

当時、全国からの支援や励ましを受けて、これなしには普通には生活できないんだろうなぁと実感していました。災害時の物資や人材面での支援は不可欠です。また、自衛隊が派遣されており非常に頼もしく思ったことをよく覚えてます。また天皇陛下が御慰問された際には非常にうれしく励みになりました。

2010-06-03 04:41:51
@simabara

非難生活といえば、今時期、梅雨の時期は雨で土石流が発生しやすいということで僕らの小学校は仮設校舎に引越しをしていた。給食は牛乳とクラッカーのみw通学はヘルメット+ゴーグル+マスク+ランドセル。僕は転校生だったのでみんながしてる白いヘルメットじゃなくて黄色…ロックマンか…とw

2010-06-03 03:11:43
@simabara

雲仙普賢岳の噴火について詳しくまとめられているHPです。 http://bit.ly/9gc3UG

2010-06-03 04:00:21
@simabara

土石流が主に流れた水無川は名称どおり、普段は水が流れてない河川です。扇状地の真ん中にあって、中流域は伏流してます。しかし、下流部は天井川になっており川底が堤の外より高いです。この条件から雨の日はもともと氾濫しやすい川でした。そこを土石流が流れて溢れたんですね。僕のばぁさんちもです

2010-06-03 04:05:30
@simabara

普賢岳は1792年にも噴火しています。この時、隣の眉山が山体崩壊を起こして、有明海に崩落。島原大変肥後迷惑という大災害が起きたんです。島原と熊本の間を50mの津波が3往復したとか…この眉山が平成の噴火では市内を守ってくれたのですね。まさしく眉のような役割をしたのです。

2010-06-03 04:08:35
@simabara

普賢岳の噴火では様々な用語が世間に広まりました。巨大な溶岩石を伴う土砂が雨で流れてくる土石流。高温のガスが高速で流れてくる火砕流。粘度の高い溶岩が火口に溜まってできる溶岩ドーム。避難先としてプレハブで作られた応急仮設住宅。災害に当たって自発的に行動・支援する災害ボランティア。等

2010-06-03 04:22:03
@simabara

島原の災害ボランティアについての論文 http://bit.ly/c4ZxP0 島原では地元ボランティアが災害発生から2日後には発足していたようです。また、大きく報道されたこともあり多くの外部ボランティアが参加し、災害ユートピア状態だったそうな。

2010-06-03 04:27:34
@simabara

当時の島原市長、鐘ヶ江市長はヒゲ市長として有名だったそうですね。噴火がおさまるまでヒゲを剃らないと宣言して、立派に指揮を勤め上げました。http://www.amazon.co.jp/dp/408783073X

2010-06-03 04:32:52
@simabara

灰。あれ中々大変です。車汚れるし、農業・漁業にも影響与えます。火山灰袋という専用の袋があって、それに灰詰めてました。鹿児島ではそれが日常茶飯事だとか… ちなみに有明海にも相当量灰が降ってます。ノリの不作の一因とも言われてます。干拓のせいだけとは言い切れないのかなぁというのが本音

2010-06-03 05:01:04