「言葉」に対する雑感

「言葉」に対する疑念を言語化してみました。まだ思考の整理がついていないので、ご批判や、思考を深める上で有益な書籍をご教授頂ければ幸いです。
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@imaginaryset

『基本となる英文を暗記して、其れを応用して自分の意思表示すると、英文につられて本当に考えている、感じている事を表現できない』って日本語でも起こり得るよね。「日本語のテキスト」は今まで触れてきたメディア(本、サイト、SNS、テレビ、マンガetc)だから、其れが意識されないだけで。

2012-02-27 08:06:19
@imaginaryset

其のメデイアの中で、ポジショントークに役立つものをを選択して、さも自分一人で考えてるように「言葉を操る」。学問的な事柄を表現する時でさえ、「学者として客観的な表現を心掛ける」「学者として論理的な表現を心掛ける」訳で。其の意味で「思考」は個人に宿るものではない。

2012-02-27 08:14:20
@imaginaryset

「頭の良い人間の考える事」が偏り、似たり寄ったりになり、対立軸が限られている事を考えると、「言葉を使った思考」が世界の一部、特殊な事象しか扱えない事に気付く。言葉を使って共有出来る事で、「個人にとって大切なこと」は本当は我々が信じているよりももっと少ないのかもしれない。

2012-02-27 08:25:17
@imaginaryset

洋書を音読しながら、Twitterをする事が多い。そこで気付くのは日本語に多いロジックや対立軸が英語に少なく、又其の逆も有る事。翻訳蒟蒻が仮に現実の物に為った世界では、物の見方の違いが明確になって、今よりも国際理解が困難なものだと云う世界観がデフォルトになるのではないのだろうか?

2012-02-27 08:47:55
@imaginaryset

現在の語学学習は「先ず相手を理解してから、自分たちを理解して貰う文化の違いを詰める行為」で其れが意識されない。が、人と人とを分けるものが思考パターンで、言葉が理解できない事でないと意識されると、「国際理解」が殺伐するのではないだろうか?学者と実務家の平行線の会話のように。

2012-02-27 08:57:08
@imaginaryset

中途半端に「理解できると信じている」「共有するものが多い」と、差異に気付いて幻滅するって事は多い。世界を記述する上で、科学的アプローチが何処迄有効かなんて、現代では分からない。もう技術革命が起こらず、科学の発展が頭打ちになる事も有り得なくはない。

2012-02-27 09:21:09
@imaginaryset

ネトウヨが同じ所で思考停止し、同じ手法で世界を切り取り続けていると「頭が良い人」が言うが、論理、客観、統計、言葉を信頼して疑わないという点で、上記の批判はブーメラン。脳はそういう使われ方ばかりされてきたし、これからもそうだろう。それは人間の宿命で、信じる変数の違いに過ぎない。

2012-02-27 09:31:57
@imaginaryset

其の意味で「頭が良い人」は「頭が良い教」の信者に過ぎない。

2012-02-27 09:46:00
@imaginaryset

ここで言う「宗教」と「哲学」の違いは、「宗教」は疑うと価値を失うが、「哲学」は疑念の目を向けられてこそ、価値を有する。前者で重要なのは信仰で、後者で重要なのは検証。そして、其の二つは互いにメタであり、オブジェクト。交互に層を為す関係を持つマトリョーシカで 永遠に次元を上げられる。

2012-02-27 09:55:27
@imaginaryset

『言葉にしなければ、存在しないものと同じ』って暴力だよね。それって言葉万能主義者のルールに従えってことだから。其の文脈に於いてtumblrはTwitterに対する反乱だよね。

2012-02-27 10:33:30
@imaginaryset

「言葉」は分からないものに名前をつけて分かった気にさせる性質持つ。世界の任意の箇所に境界線を作り、区分して概念を構築する。分からないからこそ名前をつけて、思考を開始するが、境界線の区切り方が妥当なものか、抑区切りことが可能なのかは、本当のところ、分からないことが多いように感じる。

2012-02-28 17:07:08
@imaginaryset

「言葉」は過去に先人たちが蓄積してきた思考パターンを引き継ぎ、テンプレートとして使用する。言葉を使って思考することにより、文法、慣習、ルール、視点、前提に縛られるが、自分一人では辿り着けない地点にまで到達することを可能にする。

2012-02-28 17:10:53
@imaginaryset

しかし、それは既に積み上がって居るものの上に積み上げるだけで、それ以外の行為に走ることを忌避させ、個人に自由に思考する権利を奪っているのでは?我々一人一人は意思を内在しない、命令や指示に従って情報を処理するCPUやHDDに過ぎず、意思を持つPCユーザーは我々の外側にいるのでは?

2012-02-28 17:18:08
@imaginaryset

と、そんな疑念を抱いてしまう。他者との脳内の共有をするのを想定するという意味で、「言葉を使って思考する」というのは「集団行動」であり「人類補完計画」なんだと。前述のPCユーザーはパラダイムや一般意志という言葉で表すことができるかもしれない。

2012-02-28 17:21:39
@imaginaryset

その文脈に於いて、言葉を使うことに慣れている「頭が良い」人というのはCPUみたいなもので、「頭が悪い」ひとはCPUクーラーや電源やADアダプターみたいなもの。両方PCを動かすのには必要で、両方ユーザーの命令に従って存在している意思を持たいない部品みたいなものなんじゃないかなぁ。

2012-02-28 17:26:59
@imaginaryset

主従関係が一般に信じられているのとは逆で、言葉は人間の道具ではなく、人間は言葉の奴隷なのでは?言葉もアーキテクチャやメディアの一種で、扱えるものには限りと傾向があり、一定のレギュレーションの基では誰が考えても同じ結果になる。その端的な例が数学で徹底的に世界を捨象して出来た言語。

2012-02-28 17:34:21
@imaginaryset

「言葉」という頭の使い方は汎用性が高く、社会的にも、歴史的にも、、認められた素晴らしいものだけど、あくまで相対的なものでone of themだよね。世界の中の理解した部分、理解した気になっている部分だけ拾い集めたものが言葉なのに、「言葉で世界を理解する」ってトートロジーだよね

2012-02-28 17:37:59
@imaginaryset

分からないものに、気付かない、目をつぶっているだけなのにさ。

2012-02-28 17:38:25
@imaginaryset

前述の通り「言葉」には世界をデフォルメする性質があるから、「言葉で考える」「論理に落としこめる」というのは、「個人」のナイーブな部分を切り落とし、自分の属している集団のルールに自分を落とし込める行為。「言葉」を使うことそれ自体が、自分を殺し、迎合する性質を持つ。

2012-02-28 20:57:37
@imaginaryset

それ故、「自分が感じたことをを言葉で表現する」「自分の考えを論理に落とし込める」という行為に、程度の差こそあれ、「外国語で私小説を書く」行為が孕むのと同じ構造の「暴力性」を感じる。外国語にはない概念を用いて考えているのに、それを表現すること忌避させる。

2012-02-28 21:05:23
@imaginaryset

集団に認められるために「言葉」を用いることは「公共性」を得る代わりに「個人」を殺す行為で、その意味で「言葉を使う」ことは纏足と同じく「暴力」だ。「言葉を使う」ことに慣れ過ぎてるために意識されないだけで、其の実、集団のルールに縛られている。

2012-02-28 21:13:01