安藤礼二氏「明治期の神智学問題におけるチベット・モンゴル学の影響」

明治期の新仏教創成期に、大谷光瑞らによって導入されたチベット・モンゴル学が折口信夫にも影響を与えていたという話。そこでは神智学者アニー・ベザントも日本とチベットと仲介に一役買ったそう。なんと折口は学部生時代に外語大の夜学でモンゴル語をやっていたとのこと。
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安藤礼二 @reiji1967

すみません、明治期の神智学問題ですが、一点だけ。

2012-03-02 22:42:33
安藤礼二 @reiji1967

吉永進一さんの研究を援用しつつ、折口に絡めますが、新仏教運動草創期に大きな問題となったのがチベットで、

2012-03-02 22:43:51
安藤礼二 @reiji1967

ブラバツキーはヒマラヤのマハトマから通信を受けていたわけですから、当然チベット密教がクローズアップされてくるわけで、

2012-03-02 22:45:31
安藤礼二 @reiji1967

杉村楚人冠の友人で、新仏教運動の生みの親である古河老川もチベットに行けば神智学の教えもよりクリアになり仏教の新たなステージがひらかれると考えていた。能海寛もその仲間で、単身チベットに向かい消息を絶った。

2012-03-02 22:48:31
安藤礼二 @reiji1967

仏教の起源とその可能性を探るために西域とチベットは最も重要な場所だった。その探検に乗り出したのが若き大谷光瑞で、光瑞とともにヨーロッパ留学したのは文学寮の教師二人、その内の一人が藤村の小説のモデルになった藤井正宣。光瑞は藤無染より二つ年上、

2012-03-02 22:52:54
安藤礼二 @reiji1967

いわゆる大谷探検隊に参加した青年僧侶の中に文学寮出身者もいたし、そのコースなども逐一本願寺の機関誌に報告されていた。

2012-03-02 22:55:52
安藤礼二 @reiji1967

チベットにはダライラマ13世、モンゴルにはジェブツンダンバ・ホトクト8世という2人の「活仏」がいて、ダライラマはモンゴルに逃れていた。

2012-03-02 23:02:42
安藤礼二 @reiji1967

信仰的にも、政治的にも、チベット-モンゴル問題というのは西本願寺の学徒にとっては大問題だった。神智学徒にとっても。だからアニー・ベザントが日本とチベットの仲介を試みた。

2012-03-02 23:07:21
安藤礼二 @reiji1967

光瑞はヨーロッパから西域を経てインドにたどり着いたところで、父光尊の死を知る。急遽日本に帰国して、新たな門主となる。自身が西域ぢ仕入れた新知識を築地別院で高輪仏教大学・高輪第一仏教中学の関係者に報告する。その中には藤無染もいたはず。

2012-03-02 23:13:30
安藤礼二 @reiji1967

東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。

2012-03-02 23:15:43
安藤礼二 @reiji1967

東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。

2012-03-02 23:15:43
安藤礼二 @reiji1967

東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。

2012-03-02 23:15:43
安藤礼二 @reiji1967

そのモンゴル語科の第一期生として通ったのが大学卒業前の折口信夫。折口に言語学の手ほどきをした金沢庄三郎はこの外大の朝鮮語の教師であり、金沢の中ではモンゴル語-朝鮮語-日本語は同じ系統の言葉だった。

2012-03-02 23:19:06
安藤礼二 @reiji1967

言語学的探究、宗教学的探究、神智学的探究というのは並行する現象だった。折口信夫にモンゴル語を教えた教師ロブサンチョイドン(ダンとも)を次に招いたのが大谷光瑞。六甲山中にタージ・マハルを模した二楽荘をつくり、そこで私塾をひらいた。

2012-03-02 23:23:30
安藤礼二 @reiji1967

大谷光瑞と折口信夫、チベットとモンゴル、仏教と神智学、比較宗教学と比較言語学等々は分かちがたく結びついている。

2012-03-02 23:26:13
安藤礼二 @reiji1967

うう、ごめんなさい。なんだか書いているうちにわけが分からなくなってしまいました。お許しを。

2012-03-02 23:29:28