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馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
誘拐婚に関していえば、それが「近代社会」による「汚染」という条件の下では許容できない、と確かに彼は言ったと記憶しているのだけど?そこを問いただしたら、「いや、本質は不協和だ」と言い出した。そして理想状態では、不協和はない、と言った。その時に、具体例を出したのは、自分を供儀の客体に
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
されることを喜ぶ人間のマンガだけだった。そういうコンテクストで、その文化との理想的な協和状態について語ることができる「現実の具体例」を、彼は出してこなかった。そのことをお忘れなのでしょうかしらね。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
寡婦殉死という習慣を持ってる社会の男性が「それが私たちが共有する価値観」であり、「そうすることを彼女たちは望んでいたのだ」という言葉を出すことによって、そうする以外には選択肢がない状況に追い込まれた彼女たちの声は無視され、彼女たちは「自発的に死ぬこと」を強制されるのだ。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
マンガの話しをしてるんじゃないんですよ、僕は。観念論的な話しには、この場合価値がない。自己犠牲的な価値観を完全に内面化しているそういう理想的な状態を考えられらないか?といわれたけれど、「そりゃ考えることはできるけど、現実社会で起きていることとは何の関係もない」と僕は答えました。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
なんなら、他の例でも良いですよ。寡婦殉死の話しでも、女性器切除の話でも。あるいは、別にサービス残業だって構わない訳です。でも、そうした具体例を一切出さずに、誘拐婚を「現代なら」許されない、と限定しておいて、「純粋状態」においては「個人の尊厳に立脚するお前の批判はおかしい」という。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
ならば、近代とはまったく無縁の社会においては、誘拐婚という自己犠牲的な文化を完全に内面化しているのがノーマルな状況であって、そこでは個人は存在しない(あるいは少なくとも例外的な状況以外では存在しない)のだから、個人の尊厳をベースに批判するのはおかしい、と事実上主張したことになる。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
ところで私は、共同主観性の名の下における、そうした主観性の抹消に対して反対しているのだ。誘拐婚は極端な例だからおかしい、というなら、極端でない具体例を出してもらいたい。ノーマルな共同主観的な自己犠牲と、極端な例外を分かつものがどこにあるのか、それを示してもらいたい。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
つまり、共同主観性による社会的自我の形成(という言葉が適切かどうかはわからないが、そんなに外れてないはず)という観念論的お話しから、具体例を一切出すことなく、「自我」や「個の尊重」が近代の産物であるという観念論的な結論を出した訳です。そこに、具体的な社会過程に関する考察はない。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
「近代的自我」批判は、ほんとうんざりするほどクリシェになってますからね。でも、誰がそのことを、きちんと証明したんですか?近代以前の自他の融即について、社会にかんする具体例を出して説明できますか?そんな曖昧な近代批判に基づいて、「個の尊厳」による他社会の批判は論点先取だと言われた。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
まあ、合意にもとづくSMプレイとかいう例なら、「ふむ、それは本人が望んだことだから、さしあたりはそっとしておくしかないよね。個人的なことは個人的なことだし。」とは言いますよ、もちろん(笑)。そういう例で、Mは被害者だとか言うつもりはないし、暴力だとも言いません、当たり前の話しで。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
まあ、僕が「誘拐婚」に拘るのは、彼が他に具体例を出さなかったからに他なりません。そして、彼がある特定の条件以外では、それを共同主観性の名の下で理論的に肯定しているという私の解釈のどこが間違っているのか、そこが明確に指摘されていないように思います。ただ単に、それは誤解だと言ってる。
Aa @Aa_stealth
@ishtarist お話を興味深く拝聴しています。また、先ほどはありがとうございました(^^)。ところで私は社会学方面からアプローチしてみますが、例えば「切腹」という行動は近代以前の自他の例としていかがでしょうか? あるいは前近代的軍隊における自害という形での責任の取り方など。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth そうですね、ただ、切腹や自害、あるいは特攻に関していえば、事実上、他に選択肢がない状況が多いですよね?周りがそれを監視していて、あがいても殺されるだけだろうというような。もちろん、そういう状況じゃなくて、たとえば自分が行った過失に対して、自分で悔悟して、
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth その結果自分を殺す、ということもありますね。ただ、その場合、責める自分と責められる自分で、激しく自己分裂を起こしている、ということになると思います。そして、そうした行為が「社会的行為」として意味を持つのは、彼の死を他人が望んでいた場合です。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth そうでなければ、それはただの「自殺」ですしね。まあ、結果として、他人が「こいつ死んでくれないかな」と思ってる人が、たまたま自殺することもあるでしょうけど。ともあれ、社会的な要請としての切腹や自害の場合、それをどんなに内面化していたとしても、
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth やはり精神的な自己分裂が起きているので、そこには暴力性がある、と私は考えています。お返事が長くなってごめんなさい。
Aa @Aa_stealth
@ishtarist 暴力性の有無および、それを暴力として糾弾すべき根拠の有無であったなら、また別の議論があるかと思います。興味深いのは、おそらく三島のケースでしょう。彼が死ななければならないと思いこんだのは、本当に社会の要請であったのか? そこまで社会は彼の死に責任があるか?
Aa @Aa_stealth
@ishtarist だから三島の死は日本的な「近代的自我」(をちょっと間違えた)死であり、ゲーリングは「ドイツ軍人として絞首刑だけはダメ」だったので、共同体によって死に方を選ばされた、過渡的死だったのではないかという、お話です。あの、的外れだったらすみません。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth もちろん、彼らの一部あるいは大部分が、自己犠牲の言説の内面化によって、自分の死を望んでいたとしても、です。僕は、どんな社会においても、自己犠牲の背景には、そうした暴力が存在する場合が多いだろうと考えています。
Aa @Aa_stealth
@ishtarist ゲーリングは死において、「ドイツ国家元帥を絞首刑に処すことを許すわけにはいかない」と連合国管理委員会あての遺書に遺していたそうです。他の人間(妻)などにも、再三、「銃殺なら異は唱えなかった」と言っていたそうです。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth いえいえ、ありがとうございます。僕が論じているのは、社会制度としての自己犠牲の話しだったのです。で、ある価値観を内面化した個々人が、社会的な暴力なく、自分を殺すということは十分にあり得ると思います。ただ、それは三島のようなヒロイックな個人の場合で、
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth ですが、多くの人間は、社会の中で従属的なポジションであり、その自己犠牲は、逃れられない暴力的社会状況と価値観の押しつけによる権力・暴力の「被害者」である場合が、どんな共同体でも圧倒的に多いと僕は考えています。たとえば、特攻隊はそうでしょうね。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth もちろん、彼らの一部あるいは大部分が、自己犠牲の言説の内面化によって、自分の死を望んでいたとしても、です。僕は、どんな社会においても、自己犠牲の背景には、そうした暴力が存在する場合が多いだろうと考えています。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
@Aa_stealth あ、いちおう、念のために繰り返しますが、僕は、文化(というか規範的言説)の内面化によって、自発的に自己犠牲行為を行うことがある、ということを否定しているつもりは一切ないんです。
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