島村家と「蟹」

宇多源氏の佐々木家を源流とする近江の島村家が、やがて土佐の島村家、江戸の島村家へと分かれ、幕末維新を迎えるまで。
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島村 輝 @shimamura_teru

たったこれだけのことでも、「高取山城」の位置、「堀城」の「浦上氏」と「島村氏」、「砥石城」の帰趨と島村盛実の運命など、諸説紛々としていて、全然はっきりしない。しかし面白い。じっくり勉強してみたいものだ。室町から戦国時代にかけて、京都付近から岡山にかけての勢力争いの図。

2012-03-06 23:38:30
島村 輝 @shimamura_teru

なお、落城した砥石城には、島村盛実に預けられたといわれるが真偽の程は不明。とWikipediaにある。これが「日本氏族大鑑」の「高智の後裔、初め備前國三石城に居し、のち高島城に遷す。浮田直家に仕ふ」という記述をもたらしているのだろう。http://t.co/plM0gFE5

2012-03-06 23:35:26
島村 輝 @shimamura_teru

砥石城は浦上氏の重要な拠点の一つで有り、砥石城奪取を狙う宗景は能家の孫、宇喜多直家に砥石城攻略を命じ、これ以後、国定は直家としばしば抗争を繰り広げる。家臣の馬場職家などの奮闘もあり度々撃退するも、弘治2年(1556年)ごろ、ついに砥石城は落城。この際に国定も討ち取られたという。

2012-03-06 23:33:37
島村 輝 @shimamura_teru

浮田国定:備前の大名浦上氏に仕える。異母兄である能家(直家の祖父、秀家の曽祖父)と折り合いが悪かったため、天文3年(1534年)島村盛実(貫阿弥)と手を結んで能家を討ち、砥石城城主の座に就く(盛実が城主だった時期を経て、その後国定が砥石城主になったという説もある)。

2012-03-06 23:31:45
島村 輝 @shimamura_teru

先に紹介した「古城ひろい」の「堀城」の解説では、「浦上氏」の家臣「島村氏」と「堀城」の関係を考察している。ここでは「太平記」に出る守護代「浦上氏」や戦国大名「浦上氏」との関係は、実は不明であるとしているが。。。このサイトはすごい知識を披露してくれるが、同時に大胆な推測も多いので。

2012-03-06 23:17:31
島村 輝 @shimamura_teru

村宗は1531年6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死するが、嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。その後、一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨、備前の2国を回復。http://t.co/Hx8FZ6fN

2012-03-06 23:09:37
島村 輝 @shimamura_teru

近江にいた島村高智(貴則・たかのり)は、桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国の下にあった。天王寺の戦(大物崩れ)の際に細川高国は備前守護代の浦上村宗と結ぶ。この縁で戦の後、浦上氏の勢力圏であった備前に入ったのだろう。http://t.co/l2p033Eo

2012-03-06 23:06:19
島村 輝 @shimamura_teru

砥石城と高取山城については、このページが詳しく、砥石城出丸(外城)=「高取山城」説についても触れている。諸説あるなかで、これがいちばんきめ細かく親切でわかりやすそうだ。http://t.co/43yGBmu0

2012-03-06 22:42:37
島村 輝 @shimamura_teru

現在一般に「高取山城」として認められているのはこちらのほう。http://t.co/fUjzJIpG

2012-03-06 22:38:14
島村 輝 @shimamura_teru

「高取山城」が「高島城」(「日本氏族大鑑」)となっている件について。ただしこのホームページが「高取山城」といっているのは、通説では「砥石城外城」であって、一般にいう「高取山城」は砥石城からもっと西にある。この辺はさらに研究が必要だ。http://t.co/zGZX6g32

2012-03-06 22:34:41
島村 輝 @shimamura_teru

魯文は「現在のチラシ・ダイレクトメールにあたる「引札」の広告文案・キャッチコピーを一万枚以上書いたことでも知られ、若い頃は「案文誂所」の看板を掲げていた」んだと。http://t.co/BnWZMiwW

2012-03-06 21:57:11
島村 輝 @shimamura_teru

ちょっと補足をしておけば、「日本氏族大鑑」に出ている「秦元親」とは、土佐の大名長宗我部元親のこと。また「島村蟹」チラシの解説を書いている「金屯道人」とはなんと仮名垣魯文である。魯文は幕末に流行したコレラのルポなんかも書いているので、「厄病除」には興味があったのかもしれない。

2012-03-06 21:55:18
島村 輝 @shimamura_teru

浦戸と種崎は現在橋で結ばれているが、元来は土佐湾の入り江の両岸。長宗我部に仕えてこの種崎側に定住したらしい。板垣退助生誕の地とか、坂本竜馬像で有名な桂浜など、目と鼻の先ではないか。http://t.co/UZiJ3zTu http://t.co/wZxmp6Zt

2012-03-06 21:52:38
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島村 輝 @shimamura_teru

そして分れて続いていった島村家が、片や土佐の勤王党、片や将軍家直参の彰義隊(実際には遅刻欠席)となって、幕末維新を生きたとはねぇ。土佐の島村家の人たちとは全然やりとりがない(当たり前だけど)が、今どうなっているんだろう。お墓は守られているようだが。どなたかご存知ありませんかね。

2012-03-06 18:02:26
島村 輝 @shimamura_teru

近江のほうの島村家は、家康の「伊賀越え」を助けた勲功で、江戸入府の際に随き従って関東にやってきた。そして本所に小さな屋敷を構え、江戸城の「進物取次番頭(しんもつとりつぎばんのかしら)」という、ワイロ役人の典型のような役職を代々勤めていくことになる。

2012-03-06 17:58:53
島村 輝 @shimamura_teru

島村盛実(貴則の子)はその宇喜多能家の孫の直家に殺されるが、その後島村家は「浮田直家に仕ふ」(「日本氏族大鑑」)とある。直家(あの秀家の父)は相当の政治家だったんだろう。でも岡山の島村家としては、やはり仕えにくかったのかもしれない。それが四国行きの理由かもね。

2012-03-06 17:55:36
島村 輝 @shimamura_teru

1534年、浦上氏の家臣であった頃から仲の悪かった宇喜多能家を砥石城に奇襲し、これを自害に追いつめた。その後は浦上家中にて権勢を大いに振るったが、能家の孫宇喜多直家によって1559年に謀反の容疑をかけられて殺された。http://t.co/eBuSaaXi

2012-03-06 17:47:38
島村 輝 @shimamura_teru

島村 盛実(しまむら もりざね、永正6年(1509年) - 永禄2年(1559年))は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣で高取山城主。島村貴則の子。名は「宗政」とも。豊後守。「貫阿弥(観阿弥とも)」と号した。

2012-03-06 17:46:59
島村 輝 @shimamura_teru

宇多天皇にまで遡ると、菅原道真や藤原時平まで出てくる。「菅原伝授手習鑑」の世界だな。そこから「平家物語」の佐々木高綱、戦国時代の「大物崩れ」で「島村蟹」、岡山の「高取山城」、そして土佐へ。宇喜多家との関係も深いんだな。http://t.co/Y1hJkHwI

2012-03-06 17:46:32
島村 輝 @shimamura_teru

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 http://t.co/6erX4xJV

2012-03-06 17:34:00
島村 輝 @shimamura_teru

宇多源氏:59代宇多天皇の子孫。第八皇子である敦実親王の子、源雅信・源重信兄弟はいずれも左大臣となった。特に源雅信の子孫が栄え、公家としては堂上家5家を、武家として近江源氏佐々木氏や分流出雲源氏の諸氏が派生した。http://t.co/3fTtHTd1

2012-03-06 17:32:19
島村 輝 @shimamura_teru

貴則の子豊後守は、天文3年(1534)この地域を基盤に国人化していた宇喜多能家を砥石城に攻め滅ぼし、浦上氏隷下の国人に成長する。しかし、島村豊後守も永禄2年(1559)に宇喜多直家に謀殺され、居城も攻略される。http://t.co/CWFJDJma

2012-03-06 17:28:08
島村 輝 @shimamura_teru

『備前軍記』によれば、享禄4年(1531)に浦上村宗の重臣として高取城主島村弾正左衛門貴則の名もあり、島村氏は代々この城を居城に浦上氏に仕えていたと考えられる。

2012-03-06 17:26:04