日本神話語り 中巻

こんばんわ! 胤義様の神話語りをまとめました! 古事記に併せて神武天皇~応神天皇です。 上巻 http://togetter.com/li/261009 下巻 http://togetter.com/li/276820
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神話語り上巻

神武東征

三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

さて、今日も神話を子供らに語るぞ! 昨日はどこまで話したかな?

2012-03-01 22:17:05
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

そうだな山幸彦と豊玉姫との間にできた、フキアエズ命に4人の子ができたのだ。その四男のイワレビコが、嫡子だ。……古代はオレらの時代のように、母の家系で嫡子が決まったのではなく、単純に一番末に生まれた子を嫡子としたのだ。

2012-03-01 22:22:05
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

その理由は色々あるが……家柄というより、自分の土地を守るために自分の血を長い間続かせる、という事を考えていたのだろうな。この感覚は「俺の屍を越えてゆけ」というゲームをした事がある者はよく解ると思う。是非やってみてくれ。そして中の人と結魂してやってくれ。いや、中の人などいないが。

2012-03-01 22:27:05

ちなみに胤義様の中の人は【三浦一族】を作っているようです。
……いや中の人などいませんが。

三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

さて、昨日までの話は神話の区切りで【神代といい、今日からの話は【人代】という。古事記と日本書紀の記述は多少違うが、この人代の記述はだいぶ食い違いがあるのだ。今年は古事記1300年、という事で古事記の記述を元に話して行くぞ!

2012-03-01 22:32:05
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

日向から筑紫に向かい、宇佐でなめこパーティーをした。そこから安芸に渡り、吉備に行き各地でなめこパーティーを開き時間を掛けて地元民を味方につけた。一介の船乗りに神名を与え仕えさせたりした。ここまで順調に味方を増やしていたが、浪速に来た時に長髄彦という者が待ち構えて攻撃してきたのだ

2012-03-01 22:42:05

胤義様はザックリ説明ですが、少し詳しく。

日向を出発し、筑紫を通って豊国の宇佐に着きます。
(日本書紀では四五歳の十月に日向を出発して、すぐに宇佐に着きます)

そこの宇沙都比古と宇佐津姫が簡素な宮を作って歓迎したとあります。
(日本書紀ではこの名を付けたのは神武天皇となっています)

この宮の場所は定かではありません。
簡単な宮なので、神武天皇が発った後に取り壊されたとも考えられますが……

宇佐と言えば宇佐八幡宮ですよねぇ。
……宇佐八幡で祀っているのは神功皇后と応神天皇ですが……。

ちなみに日本書紀では、十一月に筑紫に着いて、十一月に安芸国に宮を建てます。

記紀で両方共、宇佐にまず向かっている所を見ると、当時日向と宇佐は、元々交友関係があったのではないでしょうか?

ちなみに日本書紀では、この宇佐の地で、神武天皇の家来である「天種子命」(天照大神が天岩戸に篭った時、鏡を差し出した神の一人、天児屋命の孫)が宇佐津姫と結婚したとあります。
その子孫が、中臣氏。かの中臣鎌足の祖神なのです!
……つまり藤原家の皆さんは……引いては名に「藤」のつく家の者は皆、この天種子命と宇佐津姫の血を引いているわけですね。

ちなみに私も「藤」四郎です。
……地方の豪族の郎党ですし……そんなやんごとなき血は引いてはいないとは思いますが……。
でも、そう言えば三浦の海南神社は藤原資盈という公家が流れ着いたという話が……。

コホン、話を戻しましょう。

さて、神武天皇は宇佐の次に、筑紫国の岡田宮で一年過ごしたとあります。が、日本書紀では、十一月に筑紫国の岡水門に至る、とだけ書かれています。

岡田神社

豊前国の岡田にある『岡田神社』が、古事記に書かれている「岡田宮」とされています。

岡水門

岡水門は遠賀川の河口付近とされていますね。

その後、
古事記では安芸国の多祁理宮で七年過ごしますが、
日本書紀では、十二月に安芸国にいたり、埃宮に住むとあります。

多家神社

謎は多いですが、安芸国の府中にある多家神社が、多祁理宮か埃宮のどちらかの跡地に建てられた、とあります……。

そして吉備之高島宮で八年過ごします。
……日本書紀では日向を出発した翌年の三月に吉備国に入り、高嶋宮で三年軍備を整えたとあります。

高島神社

高島宮があった場所は、備前・備中・備後・美作で多数ありますが、昭和の世の学者たちが、当時の学会の総力を挙げて比定したのが、ここ備中の宮浦にある高島という島の、高島神社です。

高島で軍備を整えた後、浪速之渡に向かいます。

浪速に向かう途中、地元の釣り人を仲間にし、水先案内をさせます。
そして槁根津日子(さよねつひこ)という名を与え、大和国造の祖となりました。

日本書紀では宇佐に来る前に出会った事になっており、名を珍彦(うづひこ)。名を与え椎根津彦(しづねつひこ)としたとあります。

出会った場所は同じ『速吸之門(はやすのみなと)』ですが、地名というよりは『流れが速い海峡』という意味です。
日向~宇佐の海峡とすると豊予海峡ですが、古事記では瀬戸内海、播磨灘……明石海峡も通ることになりますね。

流れが速さが違えば、船の捌き方も変わって来ます。
相模の海で馴らした三浦水軍も、屋島・壇ノ浦の急流では勝手が違って苦労したという話も聞きますしね。
……もしかしたら、こうした水先案内人は各地に複数いたのかもしれませんね。

さて浪速之渡はどこかというと……
今の世とも、鎌倉の世とも、ヘタしたら古事記が作られた当時とも海岸線が違いますから……どこだったのかは定かではありません。
上町台地が昔は岬になっていて、その当たりだろうと言われております。

浪速渡

今の世では上町台地の北端に大阪城があるので、分かりやすいですね。 そう言えば、大阪城を作ったのは豊臣秀吉公……。 承久の乱でも陣を張っていた墨俣に城を建てたのも秀吉公……。

青雲之白肩津

浪速渡を通ってこのあたりに停泊しました。

そして長髄彦と戦闘になります。

長髄彦は、古事記では「トミノナガスネヒコ」と書かれています。
トミは、大和国にあった鳥見(とみ)郷のことでしょう。

生駒山を超えようとした所を攻撃されたのですね。

三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

天つ神どころか国つ神の一族でもないが。長髄彦は鬼のように強かった。この時、イワレビコの兄イツセが重症を負ってしまう! 息も絶え絶えにイツセは言う。「オレたちは日神の御子だ。なのに太陽が登る東に向かって攻撃したのが間違いだったのだ。回りこんで、太陽を背負って戦おう」

2012-03-01 22:47:05
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

しかし周り込む途中でイツセの容態が悪化して……ついに死んでしまったのだ。紀伊国、亀山神社の近くの古墳が、イツセの御陵だ。……兄を失っても、軍は進めなくてはならない。イワレビコたちはそこから更に回って熊野村という所に着いた。

2012-03-01 22:52:04

×亀山
◯竈山

男水門

神武天皇の一行がここにたどり着いた時、五瀬命が 「負賎奴之手乎死 (賎しき奴の手を負いてや死なん)」 賤しき身分の者の手に掛かって、 悔しさから雄叫びながら絶命します。 この“雄叫び”(原文では男健で“おたけび”)にちなんで『男水門(をのみなと)』と呼ばれました。 この男神社があるところです。 鎌倉の世では和泉国なんですが、記紀では何故か紀国と書かれていますね。 古事記が書かれた頃は河内国の一部だったと思うのですが……。

竈山神社

五瀬命の御陵があるのが、男神社の南にある、竈山神社です。

三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

そこになんか、大きな熊がいて、チラッチラ視界に入っててなんだろうなぁと思ってるうちになんか気を失ってしまったのだ。その時、熊野の倉庫番の男がやって来て、イワレビコを起こし、太刀を差し出した。イワレビコはそれを受け取って熊を倒すと、周りの兵士たちも起き上がったのだ。

2012-03-01 22:57:05
熊野村

熊野村というのは、熊野にあった村という事で、正確な村の名は記紀には書かれておりませんが、倉庫番の男(高倉下"たかくらじ")を祭る神社が、熊野速玉大社の近くの神倉神社ですので、この近くだと思われます。

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