紀伊国屋じんぶん大賞2011 大賞受賞記念 國分功一郎 〈欲望と快楽の倫理学〉 序章まとめ

紀伊国屋サザンシアターで行われた國分功一郎さんの公開授業、実況していただいた@tokadaさんのつぶやきをまとめました。
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tokada @tokada

レジュメの見出し 0.なぜ〈欲望と快楽の倫理学〉か? 1.哲学と快楽 2.カントの批判哲学における快の問題 3.美は可能か?ー村上靖彦による美の純粋性への批判 4.快と純度の問題 5.快楽と享楽ーロラン・バルト『テクストの快楽』 6.結論に代えてー欲望と快楽 #yokurin

2012-03-09 19:34:48
tokada @tokada

國分さん登場。紀伊國屋じんぶん大賞を受賞して光栄。読者に投票していただいた賞であり、嬉しい。いつも授業は100人ぐらいだけど、今日は300人ぐらい。一応いつものように授業の形で。続編を欲望と快楽の倫理学にしようと思っていたので、その序章ということになった。 #yokurin

2012-03-09 19:37:55
tokada @tokada

欲望と快楽の倫理学、タイトルは考えていたけど中身は考えていなかった。やっと3日前ぐらいにレジュメができた。 #yokurin

2012-03-09 19:38:51
tokada @tokada

なぜ〈欲望と快楽の倫理学〉か?『暇と退屈の倫理学』には3つの結論がある。⑴通読すること。読むことを体験することが重要。要約してはいけない。 #yokurin

2012-03-09 19:42:28
tokada @tokada

暇倫の結論⑵人間であることを楽しむこと。つまり、贅沢を取り戻すこと。ハイデガーが描く招待パーティ。楽しいけど、どこか虚しいというもの。しかし、逆にそれを楽しむべきというのが僕の考え。楽しみとはそういうもの。ハイデガーは、パーティを楽しむ術を知らないのではないか? #yokurin

2012-03-09 19:44:48
tokada @tokada

楽しむことはやってくるものではない。楽しむためには訓練が必要(ラッセル)。人はあらゆることを楽しめる。例えばごはん。フランスは野菜が美味しい。サラダはれっきとした食べ物だということを知った。食べ物の美味しさを発見するのも訓練。いろんな快楽が訓練を前提としている。 #yokurin

2012-03-09 19:49:29
tokada @tokada

暇倫の結論⑶動物になること=とりさらわれること、が退屈と関連する。ひとつの環世界に取り込まれること。退屈するのは人間だけだという主張があるが、アメリカでは動物が退屈するという研究もある。 #yokurin

2012-03-09 19:51:41
tokada @tokada

哲学は楽しさや快楽についてあまりら考えてこなかった。楽しさや快楽は美しさよりも低級だと思われてきたから。あまりにも楽しさについて論じていないので、これはやるべきだと思った。どういうときに楽しいのか、というのは考えてみると難しい。今日はこれについて考えてみる。 #yokurin

2012-03-09 19:53:42
tokada @tokada

フロイトの快の定義。快とは、生物にとっては興奮量の減少である。その究極は、あらゆる生物は自分の生を全うして、死ぬことを目指しているということ(死の欲動)。死は物質に還ることだから、究極の興奮量ゼロであり、だから死を目指すという。しかしこの考え方は究極すぎる。 #yokurin

2012-03-09 19:59:08
tokada @tokada

カントが快の話をしている。『実践理性批判』はどう生きるべきかを論じていて、快 Lust を論じている。カントはまず快楽主義を否定する。気持ち良くなるために親切をするのではない。何かのために良いことをするのは病的だという。ではどうすればいいか。 #yokurin

2012-03-09 20:02:16
tokada @tokada

カントは、快楽主義ではなく、普遍的な法則に従えという(定言命法)。法則の内容は決まっているわけではない。常にその行動が正しいかどうか、問いなさいという。それが倫理的な行為だという。そのように法則に従うことこそが人間の自由だというのが、一見逆説的なカントの考え。 #yokurin

2012-03-09 20:06:33
tokada @tokada

しかしカントによると、法則に従う倫理的な行為の結果、高級な「知的満足」がやってくるらしい。しかしこれは快楽とは違う。快そのものを扱うのは『判断力批判』。高級な快楽とは「これは美しい」という美的判断をすることだという。 #yokurin

2012-03-09 20:11:42
tokada @tokada

では美とは何か?「このバラは美しい」と「このバラは好ましい」の違い。カントによると、後者は人によるが、前者の美しいという判断は誰もがくだす普遍的なものだという。また、美しいという判断は、バラ一般ではなく、「このバラ」という個別のものに対して為されるという。 #yokurin

2012-03-09 20:15:46
tokada @tokada

しかしこれには疑問がある。純粋に「美しい」という判断は可能なのか。村上靖彦は『自閉症の現象学』で、自閉症児の行動を解説して、美の体験とは、感性の自己組織化が生み出す快だという。つまり、概念による規定や自我の関わりなしに、感性的な形が自動的に生成することだという。 #yokurin

2012-03-09 20:21:24
tokada @tokada

しかし自閉症ではない「定型発達」の場合は、美の体験に多くの条件が必要だと村上はいう。それどころか、純粋な美的触発はないだろうという。定型発達については美は不純である。必ず論理や好ましさが入ってしまい、純粋な、絶対的な美は経験できない。 #yokurin

2012-03-09 20:27:43
tokada @tokada

カントによると、純粋な美とは、あらゆる関心を欠くものだという。しかしデリダはそんなものは経験不可能だと批判する。美は不純なものでしかあり得ない。美とは感性の自己組織化が生成する快だが、そこには概ね悟性の概念的作用が入り込む。不純であるが故に他者とも共有できる。 #yokurin

2012-03-09 20:33:14
tokada @tokada

そろそろ結論になるが、美の本質は、「美的判断、論理判断、感覚的判断=快」が、入り混じったものとして捉えるべきなのではないか。これは快の側から見ても同じである。この不純の連続体、混合物にこそ、美的判断があるし、楽しさがあるのではないか。 #yokurin

2012-03-09 20:36:57
tokada @tokada

不純なものこそが楽しさの本質である。このことに気がつくと、いろいろなものが見えてくる。カントも、快にはいろいろなものがあると言っている。美はある種の純粋な概念だが、楽しみとは不純の連続体だからこそ、哲学者は論じることを避けてきたのではないか。 #yokurin

2012-03-09 20:40:24
tokada @tokada

おそらくこの不純な連続態から快楽について考えていたのが、ロラン・バルトである。『テクストの快楽』は、テクストに集中していない読書においてこそ現れる不純なものだという。例えば読書中にツイッターを見るような。つまり、とりさわれないことだという。 #yokurin

2012-03-09 20:43:53
tokada @tokada

快楽とは、「言葉で言い表せる」(バルト)ものである。つまり、村上が言っていた、美的判断の不純性ゆえの伝達可能性である。最高度に純化された美的体験は伝達不可能。純度の高い美の場合に批評が必要となるのはそのためではないか。 #yokurin

2012-03-09 20:53:48
tokada @tokada

結論に変えて。〈欲望〉を重視しているドゥルーズと〈快楽〉を重視するフーコーが対立している。ドゥルーズは、欲望はプロセス(過程)であり、それを切断してしまう快楽はよくないという。ドゥルーズは純粋な満足を目指していて、快楽の不純さを知っていたのではないだろうか。 #yokurin

2012-03-09 20:58:58
tokada @tokada

ドゥルーズは暇倫の三つ目の結論のことしか考えていなかったのではないか。欲望のエリート主義のようなもの。欲望と快楽の対立をどう考えていくかが、一つの論点となる。 #yokurin

2012-03-09 21:01:06