気になったので

@3812puking さんのツブヤキをまとめさせてもらいました
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@3812puking

あの日① 三ヶ月前に妻が生死を彷徨ったことをきっかけにいつ何時、病院に連れて行けるよう禁酒していた。同時に自分の肥満気味の身体を何とかせねばと人生初のダイエットを続けていた。あの日、妻の体調も回復したこともあり、金曜日だし、アルコールを解禁しようかと妻と話していた。

2012-03-10 10:15:12
@3812puking

あの日② 昼休みに妻とメールで話し、妻からは、何かしらお酒のツマミを準備しておくと連絡があった。ひとしきり午後の仕事に没頭し、そろそろコーヒーブレイクをしようかと席を立った。その前にトイレに入り、用を足し終わったまさにその時、揺れが始まった。最初は小さな揺れが次第に大きくなった。

2012-03-10 10:20:51
@3812puking

あの日③ 揺れてる最中、これは尋常ではないと思い、妻に地震、大丈夫かとメール。トイレから廊下を見ると天井から蛍光灯、石膏ボード、配管などが落下しており、ならばトイレの方が安全とばかり、トイレで揺れが収まるのを待った。

2012-03-10 10:24:30
@3812puking

あの日④ 揺れが小さくなり、廊下に出ると、自動販売機コーナーから同僚が顔を見せた。二人でこれは外に避難した方が良いと話し、職場に戻ると机や棚が乱れ、誰の姿も見えず、ダメだったのかと蒼くなった。ダメもとで、外に逃げろと叫ぶと机の下から同僚達が姿を見せ、一瞬、安堵した。

2012-03-10 10:31:25
@3812puking

あの日⑤ 外に出て、社員全員の安全が確認された。その時、ワンセグでニュースを見たら、宮古市の魚市場が津波に襲われる場面だった。全員帰宅となり、車で道路に出ると信号は全て消えており、やはり家路に急ぐ車で混雑していた。途中、妻にメールすると家はめちゃくちゃと返信があった。

2012-03-10 10:55:33
@3812puking

あの日⑥ 買ったばかりのテレビもダメか、食器もダメだろうな、もしかしたら家も壊れたかと不安に駆られながら家路を急ぐ。いつもの三倍もの時間が掛かった。家に着いて、家の中を見ると自分の蔵書の殆どが落下したくらいで他に被害は無く、安堵した。そして、妻に気仙沼の両親は大丈夫かと尋ねた。

2012-03-10 11:00:06
@3812puking

あの日⑦ 妻に確認すると16時30分に気仙沼の母親から津波で家に帰れないとメールがあったようだ。夫婦で出掛けてて地震に遭遇したようだ。津波は15時台に来たはずだから、きっと無事だよと妻を励まし、とりあえず近くのコンビニに食糧や飲み物を買いに行った。しかし、殆ど何も無かった。

2012-03-10 15:45:14
@3812puking

あの日⑧ 懐中電灯の明かりで簡単な夕食。ラジオから…壊滅です…300体の死体が…と信じられない言葉が。壊滅とはどういうことなのか理解出来なかった。寒くなり、重ね着し、毛布に包まる。ダイエットしてて良かったと思った。夜は手荷物を枕元に置き、服を着て寝た。その後も不気味な揺れが続く。

2012-03-10 16:03:00
@3812puking

その後① 翌日、土曜日。徒歩で早目に出社し、会社の復旧作業。停電のため15時まで作業。退社後は食糧などを探して歩き回った。その間、自分と妻の両親の安否確認で電話したり、メールしたり。しかし、なかなか電話はつながらない。ようやく自分の両親とは連絡が取れたが妻の両親とは連絡が取れず。

2012-03-10 16:24:45
@3812puking

その後② 自分は毎日、徒歩で会社に行き、復旧活動と対策会議。その間に妻は自分の両親の安否確認のため伝言ダイヤルを利用したり、ネットで検索したり。まだ、妻は本調子でないようなので自分は徒歩で食糧などを調達した。日に日にガソリン不足で車が減り、会社に来る社員も減り続けた。

2012-03-10 16:29:24
@3812puking

その後③ 震災後、六日経って、関東の親戚から妻の両親が花巻から連絡して来たと電話が入る。TwitterやGoogleで気仙沼の様子、安否を確認していた時に本当に嬉しい知らせだった。しかし、気仙沼から何故、花巻に。救助されたのかと不安になった。

2012-03-10 16:35:08
@3812puking

その後④ 金曜日に会社で女性から一関市内より大東、千厩のスーパーの方が食糧が豊富だと耳寄りな情報を得る。Twitterでガソリンスタンドの情報を探していると20時から給油を始めるスタンドがあるとの情報が。デマかもと思い、真っ暗な道を歩いてスタンドに向かう。

2012-03-10 16:39:31
@3812puking

その後⑤ スタンドには既に長蛇の列。交通整理をしている店員に聞くと20リッターだが、まだ間に合うという。妻に連絡し、車で来てもらい、4時間並び、20リッターを給油、満タンにした。翌日の土曜日は会社に行かず、気仙沼に向かう。食糧や物資をあるだけ掻き集め、途中、弁当も購入した。

2012-03-10 16:44:19
@3812puking

その後⑥ 284号は走る車も殆ど無く、たまに見るのは自衛隊や警察、災害支援の車だけ。気仙沼に近付くと至る所に震災の爪痕が。45号に乗り、真っ暗なトンネルを抜け、鹿折唐桑の街を見て愕然とした。火災で燃えた街、打ち上げられた船、流された車、瓦礫。声も出なかった。

2012-03-10 16:49:06
@3812puking

その後⑦ 唐桑半島への入口、只越も悲惨だった。家は流され、やっと道路が通れるという状況。今まで見えるはずがなかった海が目の前に広がる。信号もガードレールも建物も何も無い。急いで両親の家に向かうが、道すがら何度も信じられない光景が。コメリの屋根に車が乗ってたり…

2012-03-10 16:53:43
@3812puking

その後⑧ 両親の家は高台にあり、無事だった。車の音で、両親が外に迎えに出てくれた。怪我も無いようで安心する。ポリタンクの水、発電式ラジオ、食糧を渡し、一緒に弁当を食べた。Twitterの情報通り、自宅組には何の物資援助は無いとのことで、非常に感謝された。

2012-03-10 16:57:47
@3812puking

その後⑨ 両親は陸前高田のコメリで買物中に被災。車はアスファルトが陥没し、斜めになったそうで、店員さんの助けで走ることが出来たらしい。唐桑の入口を下ったところ、目の前5mに津波が迫り、慌ててバックしたとのこと。途方に暮れていると付近の人が近くに中学校に行けと教えてくれたという。

2012-03-10 17:05:08
@3812puking

その後10 中学校には多くの避難者がおり、せいぜい煎餅が一枚配られる程度だったらしい。翌日、徒歩なら唐桑に行けると聞き、ダメかなと思いながら自宅へ向かったようだ。途中、見ず知らずの人からおにぎりと水をもらい、またある人には車で家まで乗せてもらったようだ。家は被害が無かった。

2012-03-10 17:10:32
@3812puking

その後11 何故、花巻か。近所の人がどうしても花巻まで行かなければならないが、ガソリンが無く、途方に暮れていたので、父親が自分の車は満タンだからと花巻まで乗せてあげようと申し出たようだ。花巻に着くと携帯が使えたようで、とりあえず残り僅かなバッテリーで親戚に無事を伝えたようだ。

2012-03-10 17:15:01