視線、声、情報、糞便 - 東浩紀氏と@schizoophrenie氏

「自分のものでありながら、本質的に他者に所有されており、それにも拘らず自分の本質を表し、自己の存在を確信させるという対象aの性質」
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東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

バフチンの文学理論は、(作者と主人公)→(ドストエフキーの詩学)→図書館(後期論文)と中心的比喩が移っていくのだけど、その推移がデリダと重なるとかそんな話だった。RT @kafu_f: @hazuma バフチンからデリダへの転換はどういういきさつがあったのですか?

2012-03-19 12:20:32
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

バフチンからデリダに変わったのではなく、ぼくは卒論からずっとデリダです。ただ、修士論文は少しはっちゃけていて、変な構成だった。

2012-03-19 12:21:33
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

初期バフチンはフッサールの影響受けているので視覚隠喩中心なのだけど、カーニバル論やポリフォニー論は聴覚隠喩中心になるのです。他方デリダはフッサールに声の優位(s'entendre-parler)を見出すのだけど、その両者がどういう関係にあるのか、とかやってたんだよね。。

2012-03-19 12:23:41
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma

で、そんな仕事と現在となんの関係があるのか、超簡単に言うと、じつは哲学とか文学理論って、歴史的に、人間の心でが優位かが優位か、その相克で作られているところがあるので、そこで「情報」ってすごく新しいよなーって(見えないし聞こえないし)、そう思っていまに至るのです。

2012-03-19 12:27:54
schizoophrenie @schizoophrenie

確かに東浩紀氏が言うように、フッサールはデリダバイアスを除けば視覚優位。アスペルガーと考えられるウィトゲンシュタインも写像やアスペクト盲は視覚的隠喩。視覚優位と音声優位でそれぞれの病態をみることは難しいのかもしれない。しかし、彼らと伝統的哲学の間には視覚のなかでの差異がありそう。

2012-03-19 12:34:05
schizoophrenie @schizoophrenie

何を考えているのかというと、重症対人恐怖(自我漏洩症状)のこと。視線恐怖は、自分の眼差しが相手に「睨んだ」などと思われることを恐れる。また独語恐怖では、「知らないうちに独り言や寝言を言ってしまったのでないか」と恐れ、対人接触ができなくなってしまう。

2012-03-19 12:37:48
schizoophrenie @schizoophrenie

なぜデリダのことが出てくるかといえば、対人恐怖においてあらわれている「眼差し」や「声」という対象が、エクリチュールとしての性質をもっているからである。自分の何気ない独り言は、ひとたび外部世界に出されると、自分の手を離れ、相手にどのように解釈されるかわからない。視線も同じである。

2012-03-19 12:40:22
schizoophrenie @schizoophrenie

「自分は嫌な臭いを発生させている」と確信する自己臭恐怖というのも有名だが、これは次のような例をあげればエクリチュールとして理解可能。満員のエレベーターのなかで放屁をした。周りの人から自分がやったと理解されることが恐ろしいが、この放屁はエレベーターの中にある時点で誰のものでもない。

2012-03-19 12:43:15
schizoophrenie @schizoophrenie

対人恐怖の症状は、自分の「眼差し」「声」「糞便(体臭)」が外的空間にでていった後に、その対象の自己所属性が曖昧になり、さらにはそれがどう他者から解釈されるかが分からない、という事態とみることができる。なお、蛇足しとくとこの場合「乳房」に対応するのはおそらく嘔吐恐怖症。

2012-03-19 12:45:57
schizoophrenie @schizoophrenie

藤縄昭臨床精神病理研究 http://t.co/NCAb5d7V 古くはこうした症状を「自我漏洩症候群」なんて呼んだものですが、ここで漏れているのは自我じゃなくて、対象aなんです。それは自分に所属しているようでありながら同時に他者のものであり、それでいて自分をもっともよく表す。

2012-03-19 12:50:45
schizoophrenie @schizoophrenie

自分の視線は、自分自身では直接みることができない。しかし、それこそが自分自身のある本質なのであって、その視線は実は他者が保持している(他者からしか見えない)、ということ。臭い(糞便)も同じ。自分の臭いは自分ではわからないけれど、それは自分自身を最もよく表すもの。

2012-03-19 12:57:23
schizoophrenie @schizoophrenie

ラカンの対象aの議論を敷衍すれば、他者とのあいだで自己の存在確信を行う方法には4つのモダリティ(眼差し、声、乳房、糞便)がある、ということになる。西洋哲学は伝統的に、見えない神という他者から眼差されているという契機において、存在確信(コギト)をなしてきた、ということなのだろう。

2012-03-19 13:00:44
schizoophrenie @schizoophrenie

パンツの哲学 - Togetter http://t.co/7KQ3FKMz で私が考えていたのはこういうこと。パンチラをみるのではなくて、むしろパンチラから見られているという契機に存在確信の本質がある。

2012-03-19 13:04:17
schizoophrenie @schizoophrenie

.@hazuma氏はバフチンの視覚優位から音声優位へ、という移行を考えていたけれども、精神病理学的に興味深いのは、対人恐怖において問題となる「対象」もまた経過にしたがって移行するということ。一般的には、赤面恐怖→自己視線恐怖/醜形恐怖→自己臭恐怖→独語妄想→寝言妄想と進行する。

2012-03-19 13:08:57
schizoophrenie @schizoophrenie

現代的には「情報」という話も出ていたので蛇足しておくと、近年対人恐怖症の病態でも「自分の個人情報が漏れる」という訴えはときおり耳にします。たしかに、個人情報も、自分のものでありながら本質的に他者に所有されており、また自分の本質そのものを表すという点でここで言う対象の定義を満たす。

2012-03-19 13:12:41
schizoophrenie @schizoophrenie

ちょっと話の視点をずらしておくと、ラカンはよくpercipiens(知覚するもの)perceptum(知覚されるもの)の話をしています。伝統的哲学は、percipiens=主体がperceptum=対象を知覚すると考えており、認識論はpercipiensを純化することに務める。

2012-03-19 13:20:33
schizoophrenie @schizoophrenie

しかし、ラカンはそうじゃないだろう、と言うわけです。むしろ「主体の確証は、主体を支えることのできる汚物との出会い、つまりその現前が必要不可欠であるといっても不当ではない対象aとの出会いの中に基礎づける」のです(S11、348-9頁) http://t.co/r2a8GVRb

2012-03-19 13:23:09
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schizoophrenie @schizoophrenie

知覚主体percipiensが知覚対象perceptumを知覚するのではなく、むしろ知覚対象は知覚主体そのものの可能性の条件である、ということ。実際、対人恐怖症ではまさに対象のただなかにおいて存在確信を得ており、それゆえに恐怖していることが見て取れる。

2012-03-19 13:26:13
schizoophrenie @schizoophrenie

だからラカンは「主体は、言語性幻覚(=声)のなかに内在している」とまで言うわけなのです。対象aというと、よく「根源的に失われた大切なもの」みたいにセンチメンタルな理解をされていますが、そうじゃないんです。存在確信の基盤となる取るに足りないもの。それこそウンコとか放屁とかも含む。

2012-03-19 13:34:23
schizoophrenie @schizoophrenie

自分のものでありながら、本質的に他者に所有されており、それにも関わらず自分の本質を表し、自己の存在を確信させるという対象aの性質をもっともよくあらわすアスキーアートはおそらくこれだろう。 http://t.co/AFE0tLPs

2012-03-19 13:38:19