両価性の教育――疑うことの重要性
- _philo_sophia
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Togetterまとめに関して@_philo_sophia >「自分は常に正しい」という間違った認識をもった教師を生まない環境を作るべき。 上記の意見他、まとめの大方の内容は私も同意見です。早急に環境整備してもらいたいものです。
2010-06-06 19:38:08Togetterまとめに関して@_philo_sophia しかし、だからといって「教師批判そのもの」を肯定する、というのはいささか乱暴すぎる気もしました。そのような肯定意見の正当化が、論点のズレた批判をする親を助長していうのではないでしょうか。
2010-06-06 19:39:11Togetterまとめに関して@_philo_sophia そしてそういったズレた親が大量発生すると的確な批判の割合が減ってしまい教師側も聴く耳をもたなくなる→議論が成り立たなくなるのではないかと思います。
2010-06-06 19:40:15Togetterまとめに関して@_philo_sophia このの内容は本筋からズレていますし、自分の頭では代案を提示することが困難なのですけれども……そこはご了承していただけるとありがたいです。以上、駄文蛇足でした。
2010-06-06 19:42:27ふーむ、「教師批判そのもの」を肯定したつもりはないんですけど。僕の意見としては、「教師批判が間違っているとは限らない」という感じです。間違った批判はなされるべきではないということは、ここで話しています。→ http://bit.ly/ahyJ9z @settsu_hiroshi
2010-06-06 19:50:19成長過程での出会いがいくら特殊な認識が形成していたとしても、まともに教職課程を受けていれば「教師が絶対」なんて神話は早々と崩れ落ちそうなものなんだけどなぁ。そこで繰り返し浮かび上がる教師の姿とは、社会の界面で苦しみながらもその矛盾した役割を精一杯果たそうとする、一人の弱い人間だ。
2010-06-06 17:54:44そういえば、例の教師批判の件について言い忘れていたことがあった。親が子供の前で教師を的確に批判することの目的は、「自分は常に正しい」という間違った認識をもった教師を生まない環境の他に、「先生は常に正しい」という間違った認識をもった生徒を生まない環境をつくることでもあります。
2010-06-06 19:33:03@_philo_sophia 確かにその通りだと思いますが、問題なのはそれが教師だけでなく全ての人間にそれが当てはまると言う事を、子供たちに教えなければ、子供たちは教師だけが「常に正し」くないという偏った見方を修得してしまう危険性があると言う事です。
2010-06-06 19:36:12まさにその通り。ということで同意のリツイート RT @yamasitamoresou http://twitter.com/yamasitamoresou/status/15548238258
2010-06-06 19:52:46一応言っておくけど、「常に正しい」の否定は「間違っていることもある」だよ。そして、「教師批判は良くない」の否定は「教師批判が良いこともある」だよ。
2010-06-06 19:58:25「グレイ」の判断は、両価感情を伴うので認知の方法としてはなかなか高度な部類に属するのではないかと思う。とりわけ、全体性を一面化しがちな子供たちにとっては。「必ずしも正しいとは限らない」が、ともすれば「必ず間違っている」に傾いてしまう。
2010-06-06 20:03:45学校の道徳教育にて、両価性について教える必要があるかもねえ。後、論理学を早めに教えてもいいかも。論理の否定を理解することは、両価性を理解することが前提になるわけだし。
2010-06-06 20:11:39まぁ、大人になっても「いい」「わるい」「どちらでもない」の3種類しかないと思ってる人は多そうだけど……
2010-06-06 20:18:07「必ずしも間違っているとは限らない=正しい」とは限りません。その理屈で言うと、「『悪魔魔が存在しない』ということは証明できない。よって、悪魔は存在する」ということになりますよ。
2010-06-06 20:19:45二項対立的な抽象的な考えを修得するに当たって、発達心理学者であるピアジェは、形式的操作段階が備わるのは12歳以降であると提示している。形式的操作段階とは抽象的な概念を基に施行できるようになり、さらに具体的内容とは無関係の、関係のみを思考対象として推論できることである。
2010-06-06 20:22:34ここで浮き彫りになる問題は、ピアジェの提示した形式的操作段階は12歳から備わるものであり、それよりも下の年齢の子供に、抽象的な「道徳」という概念をどう教えるかという事だ。一般的な小学生の道徳教育は具体から抽象に遡るという方法が取られているようではあるが。
2010-06-06 20:25:39具体から抽象に遡るという方法かあ。「動物は人間」という論理の否定は「動物は人間ではない」ではなく、「動物はかならずしも人間とは限らない」です。という感じかなあ。
2010-06-06 20:28:17恣意的に造られた(教育的)「道徳教育」を教わった子供たちが、「道徳教育」そのものを妄信してしまうような事が果たして「道徳的」だと言う事ができるのであろうか。
2010-06-06 20:32:25しかもそれを教える対象は形式的操作段階に至っていない子供も含まれると言うのに。一体彼ら(抽象的な概念を操作できない子供たち)に、「疑う」余地はあるのだろうか。道徳はしばしば「正義」(justice)に支えられているが、正義を疑うという議論から本来は入るべきではないだろうか。
2010-06-06 20:35:15「〇〇は正しい」という論理は「〇〇は必ずしも正しいとは限らない」という論理によって否定され、「間違っている」ことになる。ここで誤解を招きやすいのは、「間違っている」のはあくまで「『〇〇は正しい』という論理」であって、「〇〇が間違っている」わけではないということ。 ※1
2010-06-06 20:55:42僕は決して懐疑論者ではない。道徳がドクマになる事を恐れているだけなのだ。中世のヨーロッパに逆戻りするような節はこの点に於いて、退行以外の何物でもないと強く感じるからだ。
2010-06-06 20:57:00「常に正しい教育」は不可能→間違いを教えてしまうことは避けられない→鵜呑みではまずい→疑う必要がある→疑う理由を教える→教師が正しいとは限らないことを教える→そのために両価性の教育が必要
2010-06-09 02:33:42