沼崎一郎先生@Ichy_Numaの「「安心」を求め過ぎると、ファシズムに通じる」
「任せて安心」というのは、信頼の誇大広告、あるいは信頼を安心と偽る虚偽広告なわけだ。信頼はリスク(心配)が伴うが、安心はリスク(心配)ゼロだから。
2012-03-20 14:50:01保護とは、救済の提供の確約でしょうか? RT @Sukuitohananika: 強い意味での「安心」=救済の到来。弱い意味での「安心」=保護されているという感覚。?
2012-03-20 14:52:12「信頼」は自主的(かつ合理的?)な選択だが、「安心」は依存的(かつ非合理的?)な選択放棄ではないか? とすると、神への信頼とは偉く尊大な人間主義だよなあ、神を主体的に選ぶんだから。
2012-03-20 15:06:00託すことを自ら決定し、自己責任で託したことを忘れないのが「信頼」、考えずに託し、託したことさえ忘れて平気でいるのが「安心」…ということかな?
2012-03-20 15:10:43「安心」とは、「心を安んじる」ことだが、「安んじてくれる」のは他者からの保護の存在ではないか。「安心」は、他者依存的、他力本願的だと思う。
2012-03-22 18:03:20「信頼」は、不安を合理的なリスク計算に置き換,え、リスクに見合ったリターンを他者に期待することで、不安に合理的に対処する。「安心」は、他者から保護を得る(得られると信じる)ことで不安そのものを減少させようとする。
2012-03-23 15:28:46「信頼」とは、実はクールなリスク・アセスメントなのだよね。走れメロスの話も、熱い友情物語ではなく、セリヌンティウスが、メロスの性格と過去の行動パターンから彼が裏切るリスクは極めて低いと計算し、その計算は当たったという話と理解しなければいけない。
2012-03-23 15:41:26セリヌンティウスがリスク計算をしていた証拠に、彼は一度はメロスを疑った。リスクがゼロではないと知っていたわけだ。だが、そのリスクを彼はとった。リスクを取る価値があったからだ。そのリスクのリターンは、メロスの釈放と、友情の再確認と、なんと王の回心という巨大な利得であった。
2012-03-23 15:44:23王の回心までは、セリヌンティウスの計算には入っていなかったろう。彼にとっては、低いリスクでメロスの釈放が得られるなら、そのリスクはとるに値するというものであった。これが「信頼」である。
2012-03-23 15:46:35「信頼社会」とは人々が合理的に少しずつリスクをとりあう社会であるり、「安心社会」とはリスクゼロを求める人々が互いにがんじがらめに縛りあう社会である。
2012-03-23 15:50:35「安心」を求めて人々がお互いにがんじがらめに縛ろうとすると、監視と懲罰のシステムが必要になり、小さな集団ではイジメの制度化で対応できるとしても、社会が大きく複雑になれば巨大な(秘密)警察&密告システムが必要となり、そのコストは膨大なものになる。
2012-03-23 16:02:56ハシモト君のパフォーマンスは、監視強化と厳罰化を中心としている。それは、人々の不安と不信につけこむ「政策」だ。監視と懲罰で公務員や教員をしばりつけて、人々に「安心」を提供しますというわけだ。それゆえ、不安と不信の強い人々の間で人気が出る。
2012-03-23 16:15:15