野中寺銘文(やちゅうじめいぶん)の二倍年暦による解析
(01)あとでブログにまとめるけど、驚くべき仮説に至ったので少々つぶやく(今日から就職支援訓練講座通い始めたのに何やってんだ俺…)。例の「野中寺銘文」(やちゅうじめいぶん)の解読です。
2012-03-30 17:11:19(02)全文でも「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞坐之時誓願之奉弥勒御像也友等人數一百十八是依六道四生人等此教可相之也」なわけで「何か問題でも?」ですが、大きな問題は2点。「丙寅年」は何年なのかと「中宮天皇」って誰?
2012-03-30 17:12:10(03)普通に考えると、天智天皇5(西暦666)年なのだが、古代史くわしい方なら「えっ」となるのは必定。なぜなら天智天皇が即位するのは7年(一説に6年)だから。5年は「称制」期間で皇太子に過ぎない。他に「斉明説」「間人皇后説」などもあるが、難問とされてきた。
2012-03-30 17:12:45(04)見開き表のオリジナルは http://t.co/2sZRJvrO だがちっさいので抜粋。要は「二倍年暦」で解釈するとどうなるか。当該年は「舒明天皇」に充当することがわかる。 http://t.co/GvwrDlgS
2012-03-30 17:14:29(05)だが、一方で4月8日が「癸卯」なのは、さんざん疑問を呈してきた「単年単歳」、つまり「二倍年暦」ではないフツーの暦の方だ。それでは矛盾も甚だしいだろうというツッコミは甘んじて受ける…。 http://t.co/fSi4bNgO
2012-03-30 17:15:36(06)西暦666年とは「白村江」以後である。「唐会要」か「通典」かド忘れしたが、直前の唐側の決意表明に「正朔(麟徳暦)使わせてやるぜ」的な意気込みがあったと記憶してる。東夷でガラパゴスな「二倍年暦」使用し続けている「倭」を正してやろうというわけだ。
2012-03-30 17:16:14(07)つまり「中宮天皇」の支配領域は二倍年暦ではなく正された通常年暦を使用している。では「白村江」の当事者で、唐軍絶賛進駐中の「倭」なのか。しかし「倭」は当時「大王不在」の可能性大である。
2012-03-30 17:16:53(08)唐の高宗が泰山で「封禅の儀」を西暦665年に行っている。出席できたのは天智天皇でも舒明天皇でもない。辛うじて可能性があるのは後に筑紫都督府に送還される「筑紫君薩夜麻」(捕虜として唐なう)である。そもそも「倭」のトップは「大王、君(キミ)」で「天皇」ではない。
2012-03-30 17:17:43(09)候補者が「そして誰もいなくなった」状態。だがここで銘文の状態が浮上する。真後ろに縦書き2字ずつ…パッと見気づかない。しかも大正7年に発見されるまで冷凍保存状態。何かを「顕彰」する意図ではなく、秘密を語り伝えるやり方だ。 http://t.co/G0GJpD0d
2012-03-30 17:18:38(10)銘文を概括すると「智識」すなわち僧たちが身体の状態がよろしくない「中宮天皇」のために奉った弥勒像という趣旨で、「中宮天皇」は仏教に理解のある庇護者・あるいは同士の関係にあることは明らかだ。
2012-03-30 17:19:08(12)ここで補助線として「萬葉集」の3首目を引こう。その題詞「天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌」に見える「中皇命」も数多の学者を苦しめてきた超難問なのだが、「間人連老」が一つのカギとなる。
2012-03-30 17:20:13(13)白雉五年(二倍年暦だと六七四)の遣唐使に「中臣間人連老」という名が見える。「萬葉集」の3首目が舒明天皇の後、額田王の前という配列からも同一人の可能性は高い。「中皇命」、「中臣間人連老」、「舒明天皇」、「中宮天皇」は同時代人ではないか。
2012-03-30 17:21:07(14)つまり「中皇命」=「中宮天皇」。この人物は仏教に理解があり僧の信任厚く、しかもひっそり語り伝えられねばならず、西日本全般で用いられていた(と想定してるのだが)二倍年暦ではなく唐の暦を強いられている。
2012-03-30 17:21:51(15)隣国百済と新羅を俯瞰すると、戦勝国のはずの新羅まで「都督」を置かれている(後に武力で駆逐)。「倭」は筑紫に置かれたし、百済の例(王族を起用)を考慮すると「筑紫君薩夜麻」がその「都督」に充当されたであろう。では「日本」はどうか?
2012-03-30 17:22:24(16)到底無傷だったとは思えない。「都督府」候補はある。難波長柄豊碕宮の前身が想定されよう。では「都督」は誰か。舒明天皇は「大嘗祭」どころか「新嘗祭」もきちんと行えていない(二倍年暦だと666年1月が11月だが、通常年暦に切り替えると11月が暦からすっ飛ぶ)。
2012-03-30 17:23:18(17)察しの良い方にはもうお分かりかも知れない。蘇我蝦夷――彼が当時「日本」の実質的トップ「中宮天皇」である。彼がすべての条件を満たす者に他ならない。唐の贔屓を背景に列島内割拠中の各国・氏族の歴史書を掻き集め屋敷に蔵していたことは「書紀」に詳述されている。
2012-03-30 17:25:28(18)「古事記」が推古天皇で終わっている構成はもっと重視されていい。それは蘇我氏によって編まれた前王朝の史書「日本書=国史」を下敷きにしたものに思える。推古天皇から禅譲されたという建前だ。舒明天皇は「王」に格下げされ蘇我蝦夷が「天皇」を襲名する――。
2012-03-30 17:26:10(19)「中宮天皇」とは「上宮」を踏まえた名称であろう。蘇我蝦夷が実質的初代となることで厩戸王の顕彰・伝説化あるいは諡号の追贈が行われる。「上宮聖徳法大王」の誕生は蘇我蝦夷が天皇であることによって初めて五臓六腑にストンと落ちる。
2012-03-30 17:26:53(20)状況を一旦整理しよう。唐との窓口をいいことに蘇我氏は「白村江」時に唐と密約を交わし「倭」の水軍を殲滅する。しかし唐の東夷政策は揺るぎ無い。協力した筈の「日本」にも「都督」は置かれ、蘇我がそのポストに据えられると、列島内は『ざわ…ざわ』となった。
2012-03-30 17:27:25(21)「倭」からは水軍と大王を捕虜にされる原因を作った裏切り者として、百済遺民からは「祖国滅亡」の仇として、新羅からは半島の唐勢力を駆逐する目的を邪魔する者として、蘇我は全方位からターゲットとなる。このプレッシャーが蘇我蝦夷を急速に弱らせていく――。
2012-03-30 17:27:57(22)蘇我氏目線からは「救国」のはずが、唐の二枚舌で思惑がズレたのかも知れない。そうした背景の中、弥勒像は仏教の庇護者である蘇我蝦夷へ奉られる(珍宝の一つか)。
2012-03-30 17:28:32(23)「乙巳の変」は必然的に起き、旧都督府は難波長柄豊碕宮へ、天皇は「倭」の血筋と推定される孝徳天皇が担ぎ出される。倭・旧百済・旧高句麗・新羅の制度を元に対唐強硬路線の連合王国「日本」は再生を目指す。
2012-03-30 17:29:14(24)中大兄皇子は父(舒明)が一旦「王」へ家格が下がったため最初から候補から外されたのかも知れない。以後、彼はなりふり構わず大海人皇子を切り崩し、孝徳天皇を孤立化へ追い込んでいくことになる。
2012-03-30 17:29:46(25)ちと大風呂敷が広がりすぎたので銘文に戻ろう。「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺…」の7字目の「旧」と12字目「開」を取り上げたい。 http://t.co/zuGyANdF
2012-03-30 17:30:37