「連続ツイート」第555回をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 本日は、このところ気になっていた「あのこと」について。
2012-04-05 08:31:29ねそ(1)新聞を読んでいたら、猫ひろしさんがカンボジア代表としてロンドン五輪に出場するというニュースについて、共同通信が配信した「核心評論」という記事が載っていた。そのことをきっかけに、猫さんの挑戦について考えたことがあるので、そのことを今朝は書きたい。
2012-04-05 08:33:04ねそ(2)共同通信記事は、基本的に猫ひろしさんの挑戦に対して批判的である。「五輪憲章」は、「選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用を明確に禁止している」とする。そして、猫さんが芸人としてのパフォーマンスの一環として五輪に出場するならば、五輪憲章違反だとするのである。
2012-04-05 08:51:50ねそ(3)また、共同通信記事は、猫さんの国籍変更についても「違和感をぬぐえない」とする。この点については、他でも批判されているの見た。国籍には歴史的、文化的な「重み」があり、五輪出場のために「便宜的に変更する」のは軽率であるという意見を表明する論者が、あちらこちらにいる。
2012-04-05 08:37:16ねそ(4)私は、猫ひろしさんの「カンボジア代表として五輪に参加」という挑戦を否定的にとらえる論調に出会う度に、「いちいちごもっとも」と思いながら、結論としては猫さんを応援したいと思う。「良識派」が唱える違和感の中にこそ、まさに、猫さんの挑戦の意義があると考えるからである。
2012-04-05 08:38:26ねそ(5)本質は、そもそも論の中にある。そもそも、なぜ五輪は国別の代表、というかたちをとっているのか? なぜ、国別にメダル獲得数を競ったりするのか? 現代の意識とはずれていないか? 100メートルの日本代表も応援したいけれども、ボルト選手の走りも見たいだろう。
2012-04-05 08:39:43ねそ(6)「国籍」とは何か。進化論的には群淘汰で説明されるのだろう。文化的、遺伝的につながった集団。国と国との戦争では、相手をあやめても自分たちの利益を図ろうとする。絶対的な自由や平等とは真逆の、やっかいで現実に存在する「国」というもの。「国」って、そもそも何なのか?
2012-04-05 08:41:44ねそ(7)国というものの成り立ちが冷徹な現実として存在するとして、五輪がそのような国家概念の上に乗っかったものだとして、猫ひろしさんの挑戦を批判する人は現状を肯定し、にゃあにゃあ走る猫さんを否定する。だけどね、たとえ2時間30分でも、体を張って走るの、大変なんだよ。
2012-04-05 08:43:50ねそ(8)猫ひろしさんの挑戦は、まさに、国とは何か、五輪とは何かという既成概念を揺るがし、もう一度考えさせるからこそ価値がある。揺るがないと、生命はすぐに陳腐化する。猫さんの挑戦で、五輪に対する、そして何よりもカンボジアという国に対する関心が高まったのはよいことではないか。
2012-04-05 08:45:46ねそ(9)国や五輪の成り立ちについて考えさせる。猫ひろしさんの挑戦は、一つの「現代アート」と言える。そのことを言わずに、あくまでもまじめにマラソンに挑戦することが、一番価値があるだろう。「正論」を唱えて反対する人たちも、実際に猫さんが走っているのを見れば、心が動くと思うよ。
2012-04-05 08:48:25