#長湫随想

恒興さんのお話を纏めさせていただきました。 時系列に並べただけですみません。
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池田勝三郎恒興 @IKD36

今日は、長湫……長久手でのことを話したいなぁと思っておるぞ。上手く纏まるか分からぬが(´v`*)ゞ #長湫随想 このたぐで俺目線での長湫合戦と、此度の長久手散策を振り返る。刻限は未定だ。

2012-04-12 06:59:33
池田勝三郎恒興 @IKD36

天正十二年の『ながくて』のことは『長湫』、先日訪れた『ながくて』は『長久手』と呼び分けることにする。随分と長い時を経たからなぁ。 #長湫随想

2012-04-12 07:04:31
池田勝三郎恒興 @IKD36

うん、大分うだうだしておったが、今からこれを流そうと思う。ぐいぐい(((((((*`・ω・ノ)ノ【 #長湫随想 】 隔離せぬ故、ちと騒がしいやも知れぬが、差し支え有る様な時には みゅーと とやらを活用してくれると助かる。面倒掛けて済まぬな。

2012-04-12 23:37:06
池田勝三郎恒興 @IKD36

今より四百と廿八年前、天正十二年の卯月九日。関ヶ原に先立つ天下分け目となった、小牧・長久手合戦と呼ばれる戦に幕が下ろされんとしておった。殿亡き後、其の築かれてきた天下への階を、誰が引き継ぎ昇るかを決める戦だ。 #長湫随想

2012-04-12 23:40:24
池田勝三郎恒興 @IKD36

そも本能寺、山崎の後の清須会議は、織田の旧臣のうち、発言力が強いと認められる者が集い、殿の後継を選ぶ為の会議だった。詰まり殿の三男・信孝どのを推す権さん(柴田どの)と、殿の嫡孫・三法師さまを推す秀吉との争いだな。 #長湫随想

2012-04-12 23:42:07
池田勝三郎恒興 @IKD36

信孝どのは先の山崎の戦にて総大将を務められ、殿の弔い合戦を制した御方である。また三法師さまは既に後継と成られていた信忠さまの御嫡男だ。権さんと秀吉の対立が明らかと成る経緯やらまで話しておると終わらぬ故省く……というか正直、俺には細かいことは良う分からぬよ。 #長湫随想

2012-04-12 23:45:07
池田勝三郎恒興 @IKD36

因みに秀吉主催の殿の葬儀では、うちの次男の輝政が、棺の一端を担わせていただいた。これは秀吉が自らを殿の後継と印象付けるための催しと言われ、権さん側もお市さまを喪主とし葬儀を行っておる。……このとき既に、戦が始まっておったと言っても過言ではあるまい……殿には申し訳無く。 #長湫随想

2012-04-12 23:48:03
池田勝三郎恒興 @IKD36

兎角、権さんも秀吉も、心底殿に惚れておったと思うぞ。『然るべき姿で』織田家を守ろうとしたのが権さん、『より高みへ』織田家の枠を超えて繋ごうとしたのが秀吉とでも言おうか、まぁ俺は斯様に捉えておった。殿への忠義は屹度同じだったと。それは俺の願いに過ぎぬのだろうか。 #長湫随想

2012-04-12 23:50:14
池田勝三郎恒興 @IKD36

何れにせよ、殿の跡継ぎし暁には、必ず天下統一を遂げ泰平を成す義務が有る。其れを果たす力有る者の外、殿の後継と認め支えることは出来ぬ。血か、力か。理か野望か。織田三郎信長さまという御方の背中を追うに要するものが何で在るか。正直、結構悩みはしたな。 #長湫随想

2012-04-12 23:53:17
池田勝三郎恒興 @IKD36

殿が秀吉を呼ぶときの楽しげなお顔が思い起こされたなぁ。何より五郎左や又左らと共に、『其方らこそが真の兄弟』と、何時も重く用いて下された大恩に、血よりも濃いものを知っておる俺が、秀吉につくことは少しも不自然ではなかったと思う。 #長湫随想

2012-04-12 23:55:19
池田勝三郎恒興 @IKD36

無論、秀吉から尾張と美濃を任せたいと言われ惹かれたことも事実だ。清須、熱田の港、岐阜、木曽三川等、主要な城に豊かな資源、恵まれた通運。それらも大事だが何より、尾張は俺達が殿と共に生まれ育ち戦った地、美濃は我が池田家の発祥にして菩提だ。我が手で守りたいと思うは当然だろ。 #長湫随想

2012-04-12 23:56:18
池田勝三郎恒興 @IKD36

それで俺は(暫く考え倦ねた後)秀吉に味方した。賤ヶ岳で権さん、小牧長湫で殿の次男・信雄どの、その求めにより参陣した竹千代と相対することになる。殿の御生前には共に戦った者達だ。織田の跡取りを決める戦だから当たり前か。避けては通れぬ道だが、心中穏やかならぬものは有るよな。 #長湫随想

2012-04-12 23:58:39
池田勝三郎恒興 @IKD36

結果、俺は長湫で世を去ることとなった。先日何人か呟いておった故、見た者も多かろう。戦の経緯は調べれば分かろうから良しとして、件の中入り。これは長引く膠着状態を打破すべく、秀吉の養子・秀次を大将とした別働隊が、密かに戦場を離脱し徳川の本拠・岡崎を奇襲せんとした策だ。 #長湫随想

2012-04-13 00:04:43
池田勝三郎恒興 @IKD36

何かこれ、俺が周囲の反対を押し切って強行した説と、実は秀吉が積極的に推した説とが有るらしいな?秀吉から五郎左への文に何か書いておったとか何とか……俺は知らぬが。何れにせよ、俺達は勝つ心算で戦に臨み負けた、それだけが真相だ。汚名を被った等と、断じて思うてはおらぬよ。 #長湫随想

2012-04-13 00:07:08
池田勝三郎恒興 @IKD36

志の根っこは同じ柴田どのもそうだが、人質と言え幼き日を共有した竹千代、殿に生涯の友と御認め賜っておった家康どのと、出来れば戦いたくは無かったな。嫌な戦であった。まったく嫌な戦であった。……斯く思うてしまうのは多分、絶対の標を失うた為よな。殿こそは、俺の北辰なのだから。 #長湫随想

2012-04-13 00:13:06
池田勝三郎恒興 @IKD36

これは結果論だが、俺はあの戦に敗れたことで、旧勢力としての立場を明らかにしたと思う。俺は最期まで、『信長軍』として生き抜き戦ったと。……そう、思いたいなぁ。殿、俺は、忠臣でしたか? #長湫随想

2012-04-13 00:15:19
池田勝三郎恒興 @IKD36

まぁざっくりとだが、長湫の話はこんなもんにしておく。誰が参戦していて誰に敗れ……みたいな話は以前したような気がするしな。徳川方の活躍は、徳川方の武将が教えてくれるぞ(勝手に決めた)! #長湫随想

2012-04-13 00:20:55
池田勝三郎恒興 @IKD36

此処から先は、先日ぶらっと花見に出掛けた時の話になる。今話すか、明日にするか、ちと迷うておる。 #長湫随想

2012-04-13 00:29:31
池田勝三郎恒興 @IKD36

今晩は。遅うなったが、続きを話そうか。取り留めの無い独り言になると思うが、良ければ耳を傾けてくれ。 #長湫随想

2012-04-15 00:57:41
池田勝三郎恒興 @IKD36

一週間ほど前のことだ。昔々、俺達が、小牧・長久手の東、岡崎へ向け出立した卯月六日。此度、俺は西へ移動していた。それについては【# 珍道中その2】たぐで見られる筈だ。まさか避難先で、偶然とは言え徳川四天王の一角に出くわそうとは……思わなかったがな。 #長湫随想

2012-04-15 00:59:59
池田勝三郎恒興 @IKD36

【珍道中ざっくり纏め】 ◆六日:もうじき俺達の命日だ。俺は西へ逃げる!→何故かちかと、在ろう事か式部に遭遇。三人で榊原城址ほか徳川巡りと宴を催した。◆七日:御伊勢参りと鳥羽方面。地元民の祭にも潜入。◆八日:式部と別れ犬山へ帰る。ちか同行。里帰りから戻ったはっち捕獲。してやはり宴。

2012-04-15 01:03:43
池田勝三郎恒興 @IKD36

これから話すのは、珍道中が明けた九日の事だ。此の上無く、良き日和であった。暖かくてな、蝶が舞い、蜂も踊っておった。風も凪ぎ穏やかで。これが俺達の命日かぁ、と、思ったら、無性に花が見たくなってな。ひとり長久手へと馬を走らせたのだ。 #長湫随想

2012-04-15 01:05:59
池田勝三郎恒興 @IKD36

あれから途方も無く長い時を経て、山河も姿を変える程に、随分様変わりしておった。似通った構えの民家が建ち並び、今どの辺りに居るのか、ちと分かり難かったな。それでも何故か真直ぐに、之助、長可の塚には辿り着いた。 #長湫随想

2012-04-15 01:07:03