ダンテ『神曲』地獄篇15歌をめぐって

地獄篇15歌は、ダンテと師匠ブルネット・ラティーノが出会うシーンがあります。そのとき、ウェルギリウスが「良く聞く人は心して聞く」(平川訳)というのですが、この訳をめぐるやりとりをとぅぎゃりました。 また、これをもとに @kunisakamoto さんが加わったやりとりもとぅぎゃってあります。
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原基晶 @motoakihara

やはり地獄篇の15歌はいい!

2012-04-14 18:26:13
🍎す_______ー_______う🌏 @sourd

@motoakihara 15歌・・・師匠と再会するところでしたよね。聾だからか、ヴェルギリウスがよく聞くことは心で聞く、というところが妙に心に残っている。

2012-04-14 20:58:44
原基晶 @motoakihara

@sourd 「良く聞く人は心して聞く」(平川訳)でしょうか。忠実に訳すと「(記憶の本に)書き留めるものは、よく聞いている」。これは、この歌で、十歌のファリナータの言葉を「本文」、それらへのベアトリーチェの説明を「注釈」と表現するのに呼応しています。平川訳は陰影を潰してしまう。

2012-04-14 22:11:07
🍎す_______ー_______う🌏 @sourd

@motoakihara そうです、平川訳を持っていないのですが、ダンテと師匠が語っているときにヴェルギリウスがそう言うところと覚えています。ファリナータとベアトリーチェのところとも呼応しているのは、まったく知らなかったです。

2012-04-14 22:22:35
原基晶 @motoakihara

@sourd 本を使った表現がキモなのですね。それが見事にきれいさっぱり消え去っている。

2012-04-14 23:17:03
🍎す_______ー_______う🌏 @sourd

@motoakihara それは、、、入れ子のような構造なのでしょうか。

2012-04-14 23:27:29
原基晶 @motoakihara

@sourd 「記憶の本」にダンテがブルネット・ラティーノの予言の言葉を書き留め、そしてその本文の中にはすでにファリナータの予言の言葉もあり、それらに対して、天国でベアトリーチェが注釈をつけるとき、という一連の流れでできている表現が第15歌には入っているのです。

2012-04-14 23:34:32
🍎す_______ー_______う🌏 @sourd

@motoakihara ああ、15歌にそのラティーノがダンテの前に現れるのではないのですか!

2012-04-14 23:38:53
原基晶 @motoakihara

@sourd そう、だからウェルギリウスの台詞をああ訳してしまうと、詩は消えてしまう。

2012-04-14 23:40:32
原基晶 @motoakihara

@sourd たぶん、それは直接ならべられているのですが、「記憶の本」が意識されないと分かりにくくなるかもしれませんね。

2012-04-14 23:58:42
原基晶 @motoakihara

@sourd 平川さんの名誉のために言っておくと、ぼくは平川訳を高く評価しています。それに「雑」と言われてますが、今までのところ、最近図書に連載されている河島英昭訳の「地獄篇」より間違いが少ないことは確かです。そして河島訳は格段に読みにくい。

2012-04-15 10:16:04
Kuni Sakamoto @kunisakamoto

@motoakihara @sourd 河島師匠の訳は煉獄篇ではないか。それはともかく彼はかなり語順にこだわっていますよね。

2012-04-15 10:42:54
原基晶 @motoakihara

@kunisakamoto @sourd 昨日からの話題が「地獄篇」15歌だったので。河島さんはイメージが喚起する順番を変えない、という戦略的には大変不利な方針をたて、恐るべき正確さにより局地戦で全勝してその不利を覆してきました。それはもう、ぼくなどは到底まねできません。(続く

2012-04-15 12:13:33
原基晶 @motoakihara

訂正)しかし『神曲』に限っては、語順を無理やりそのままにするために、{叙事詩に求められる}物語的リズムを作れないこと、順接を逆接にしていることなどの欠点が露呈しました。しかし何より、古語をきちんと古語として把握できていないことと、ある種の構文を(続く

2012-04-15 12:31:27
原基晶 @motoakihara

@kunisakamoto @sourd 間違えて解釈してしまうことなどが問題だと思います。具体的には、主節に知覚動詞が来たときに、従属節や句の中にcon(英語のwithのようなもの)が来ると、~とともに(状態)、とせず、~によって(手段)、と訳してしまうことなどがあげられます。

2012-04-15 12:20:52
原基晶 @motoakihara

「煉獄篇」はよい歌もあったけど、だめなときは「地獄篇」よりさらに駄目だった。あと連載の関係上だろうと思うけど、「地獄篇」26歌、27歌は途中で注をつけるのを放棄している。これは読者無視だな。

2012-04-15 12:24:58
Kuni Sakamoto @kunisakamoto

@motoakihara @sourd なるほどなるほど。あれは彼の一貫した方針なのですね。確かにパヴェーゼの訳をパラパラ見た感じではそういう印象を受けました。ちゃんと読まなければなりませんね。

2012-04-15 12:35:40
Kuni Sakamoto @kunisakamoto

@motoakihara @sourd 『神曲』の訳については私は細かい部分の理解は行き届きませんが、たしかに日本語としてはぎりぎりのラインの訳になっているとは思います。そして確かに今月号はなぜかないんですよねw

2012-04-15 12:36:29
原基晶 @motoakihara

@kunisakamoto @sourd パヴェーゼは時間を循環の相のもとに描き出そうとしたので、時間が円環を描くように追想シーンが返ってくることが多く、その文体はまさに河島さんのためのものでした。しかしダンテは時間をまっすぐ走るので、彼の文体は合わないかな、と思います。

2012-04-15 12:45:03