渡邊芳之先生ynabe39の「「人に迷惑をかけないことだけが自由の範囲だ」というのと「人に迷惑をかけるのも自由だがかけた迷惑には自分が責任をとらねばならない」というのは似ているがまったく違うことだ。」
けっきょく「自由として認められるのは人に迷惑をかけない行動だけ」という考え方が「多くの知識人にも共有される常識」であることがよくわかる。
2012-04-16 05:45:01「人に迷惑をかけないことだけが自由の範囲だ」というのと「人に迷惑をかけるのも自由だがかけた迷惑には自分が責任をとらねばならない」というのは似ているがまったく違うことだ。私はあくまでも後者の立場である。
2012-04-16 05:47:52というか「自由を求める側」も「自由であるということはその結果についても責任を問われないことだ」と思っているふしがある。それは違うだろうと私は思う。
2012-04-16 05:52:48「ご自由にお持ちください」「空き時間は自由に使っていい」「来るか来ないかは自由です」といった副詞や形容詞としての「自由」と政治的な理念を示す名詞としての「自由」には距離があるのかもしれない。
2012-04-16 05:57:35「自由な社会」では「自分にとって不快だったり迷惑だったりする他人の行動」も自由である。ただし自分が受けた被害についてはその自由を行使した人の責任を問うことができる。しかしその手続きはあくまで「自由の個別の結果について」行われる。
2012-04-16 06:02:00そんなのは面倒だから他人に迷惑な行動は事前に禁止してほしい、その禁止は政府や行政がやってほしい、というのが「普通の考え」である。そして「なにが他人の迷惑かなんて考えなくても常識でわかるでしょう」というのも「普通の考え」である。
2012-04-16 06:04:54世の中に広まっている「自由への不信」のかなりの部分は「自由を求める人が自由とともに自由の責任からも解放されることをも求めた」ことに起因するように思うことがある。
2012-04-16 06:08:00それなのになぜ「発達した民主主義国」の社会は一致して「自由を拡大するように」発展してきたのか。これは別に「人々の幸せのため」ではないのではないかと思うことがある。
2012-04-16 06:17:15私はツイッターで「反論」というものは基本的に「@つきで送られてきたコメント」と「相互フォローしているのがわかっている相手」にしかしない。そうでないと「そのことがいわれた文脈」がわからないから勘違いしやすいからだ。
2012-04-16 07:19:57それでも「こんなことを言ってくるのはこの人がバカだからだ」と思い込んで話しはじめて失敗することはある。勘違いに気づいたらできるだけすぐに謝るようにしている。そういう出会いがもとでずっと相互フォローしている方も何人かいる。
2012-04-16 07:24:18責任は「誰ががそれを問うたとき」に発生します。責任を問う人が不特定多数ということはないです。 RT @hite_shiro0613: 自分の発言で迷惑をかけるかも知れない人は不特定多数なのに、全てに責任なんて取れるのでしょうか………
2012-04-16 08:27:27自由の究極の姿の(すくなくとも)ひとつが「万人の万人に対する闘争」であることは自由を主張するなら意識しなければならないのではないか。
2012-04-16 10:49:33自由なほうがいいけど自由は怖いものだからみんなで同意して一定の制限を設けようよというのがどこの社会でもある「常識的な考え」。ただしその「現実的なバランス」に合わせて「自由の定義」のほうを変えようとすることには同意できない。
2012-04-16 10:54:56自分が自由な社会は他人の自由によって迷惑をかけられることも多い社会。他人に迷惑をかけられるのは嫌だから自分の自由も制限されていいというのは「まともな選択」のひとつだと思う。
2012-04-16 11:01:46私が言いたいのは「他人に迷惑をかけないことだけを自由という」「他人に迷惑をかけるものは自由といわない」というのは「自由を美化する欺瞞」で「自由は人に迷惑をかける怖いものだから同意のもとで制限するけどそのぶんみんなの自由も制限されますよ」と言うべきだということ。
2012-04-16 11:10:02