壊れもののために~ストーンエイジ 小池博史さんによる解説

壊れもののためにから演出家自身による解説
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小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑩ 1991年、この作品の後で「パレード」を持ってイギリスツアーを始めての海外公演として敢行。結成後9年掛かった。以降はほぼ毎年数回のツアーが続き、外国人たちとの作品制作もどんどん増えていくことになる。この頃は欧米への憧れがあったが、次第に消えていった。

2012-03-22 08:56:59
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑨ 高校時代、建築家を目指したが、そうした意識がハッキリと再び首をもたげてきていた。改めて空間自体がリズムを持ち、空間、時間、身体によるリズム構築こそが命だと明確に意識するようになった。

2012-03-22 08:52:16
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑧ タイトルからも明らかなように、太古と現在、未来への橋をどのように架けていくか、それが焦点であった。舞台上には実際に橋が架けられた。オブジェは動き続け、空間全体が上演中、ずっと動いているような仕組みを作った。時間を空間性によって変える意識が強くなった。

2012-03-22 08:52:04
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑦ アメリカでは大学が地域の文化中核を担う意識が高いが日本ではまずゼロである。問題は「ストーンエイジ」稽古中に起きた。テンションが上がっているものだから、音響をどんどん大きくしていったために起きた問題である。

2012-03-22 08:51:47
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑥ この作品までは、一橋大学が使えたために稽古場費用がかからなかった。だんだん巨大化し、かつ本格化していったために、大学内ではごまかしがきかなくなっていた。また、柔道場を借りて深夜まで稽古しているものだから、いろいろな苦情が出た。すぐ隣が民家だった。

2012-03-22 08:51:36
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」⑤ これが可能になったのは、間違いなく助成金を獲得できたからだった。セゾン文化財団による3年間の運営助成金を得られたのも大きかった。ただし、巨大な作品だから、海外になどオファーはあっても持っていけるものではない。アメリカからは小さい作品を作れ、と言われ続けた。

2012-03-22 08:51:21
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」④ 作品としてはそれまでもどんどん大きくなっていたが、このあたりから巨大化していった。「ストーンエイジ」「ブッシュオブゴースツ」「青」「城~マクベス」と巨大化の一途を辿った。その後も小さくはならなかったがパパ・タラフマラ=この時代のイメージ、という人も多い。

2012-03-22 08:51:10
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」③ 清水啓司や白井、山崎、鈴木、永谷、小川、松島などなど、才能が集結していった感がある。身体性に関しては、もはや単なる日常の延長線上の身体では物足りなくなっていた。可能性がたいして出てこない。そこで舞踊家を入れていったのである。でも舞踊だけでも詰まらない。

2012-03-22 08:50:38
小池博史 @koikehiroshi

「ストーンエイジ」② 「パレード」を見て、白井さち子が入り、「ストーンエイジ」では山崎広太も入って、どんどん舞踊的身体言語を必要としていた現れが如実に出てくる。同じく「パレード」後に鈴木美緒が入った。最初はただのデブだったが、すぐに身体を改造し、めきめき頭角を現していった。

2012-03-22 08:50:20
小池博史 @koikehiroshi

第十五回作品「ストーンエイジ」① 1991年3月スペースゼロにて公演。1990年という年ははじめて新作公演を一切行わない年だった。「ストーンエイジ」までに起きたことは、ベルリンの壁が崩れ、東西冷戦が終わり、希望の鐘が高らかに響き渡った時である。

2012-03-22 08:50:08
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑩ また、この作品ではじめて海外に出て行くことができた。1991年のこと。イギリスツアーだったが、その時、バウスシアターの元社長、本田さんがポンと100万円を寄付してくれた。昔ポロッと言ったことを覚えていたのだ。強く感動した。心からこの人を信じたいと思った。

2012-03-22 00:24:25
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑨ この作品でパパ・タラフマラを知ったという方は多い。かつ、テレビのCMでも3つの会社で使用したり、世はバブルになっていた。作っている側は、決して気持ちの良い空間作りを目指したわけではないが、とてもファッショナブルな捉えられ方をされ、戸惑いがあったのも事実である。

2012-03-22 00:23:22
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑧ 白い大きなオブジェが7本、舞台上に聳え立ち、人と物との関係が次々と変化して見えてくる作品である。ロケットにもミサイルにも、木々に林に見えるという作品で、やはりここでも実は自然と人間との共生は大きなテーマとなっている。だが、そんなことを語った人は誰もいない。

2012-03-22 00:22:44
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑦ 最初の利賀フェスはボブ・ウィルソン、カントール、メレディスモンク、天井桟敷、転形劇場、SCOT等々が出ていた凄いフェスで、ゆえに初期タラフマラは、利賀フェスに出ることが目標のひとつではあった。7年目にして到達したということだ。

2012-03-22 00:21:39
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑥ この作品は1989年8月に富山県の利賀フェスティバルの野外劇場で初演。次に名古屋でテントを使っての舞台。そして恵比寿ファクトリーという真っ白な空間での公演を続けて行った。利賀フェスというのはパパ・タラフマラを作ったときにみんなでバイクで行った最初のイベントだった。

2012-03-22 00:21:03
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」⑤ 日本に戻ってきてすぐ元号が平成に変わった。しばらくして、北京で天安門事件が起きた。事件の前には稽古をはじめていたが、天安門事件は非常に大きなインパクトを持って私に迫った。時代の大きな転換点にあって、エネルギーのパレードを描こうとして描いたのが「パレード」である。

2012-03-22 00:20:29
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」④ 安いから毎日でも行くことができた。自分自身がやってきた作品群にたいして、大きなプライドを持っていた。だが、本当にダメだと思った。細部のグレードの高さに打ちのめされた。これが、私自身、本気になってやろうと思った出発点となった。とにかく甘かったのである。

2012-03-22 00:19:30
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」③ 多くのフランス人、日本人に出会った。舞台公演も見続けたが、正直に言えば、作品として面白いと思ったモノはきわめて少なかった。ただし、ひとつひとつのディテールはとても高い。もちろんピンキリではあるが、日本よりは遙かにレベルは高く、チケット代は安かった。

2012-03-22 00:18:35
小池博史 @koikehiroshi

「パレード」② パリは舞台芸術の本場だと思っていた。憧れてもいたし、事実、きれいな都市ではあった。私自身はじめての海外であったから、毎日が興奮の日々で、舞台公演も毎日見て回った。舞台芸術が街に根付き、多くが日常的に舞台に足を運んでいたことに驚いた。これはすごいと思ったものだ。

2012-03-22 00:17:18
小池博史 @koikehiroshi

第十四回公演「パレード」① この公演はいろいろな意味でエポックメイキングな公演となった。第四期始まりの作品である。私は子どもの頃から海外に出たくて仕方がなかったが、実際にはじめて海外に出ることができたのは「海の動物園」が終わってすぐである。フランス外務省の招聘でパリに行った。

2012-03-22 00:16:18
小池博史 @koikehiroshi

「海の動物園」⑧ 元バスケットのオリンピック候補選手というのがふたりいた。彼らはジャンプするだけでさまになった。オブジェは空間全部を使って動かした。雲が家になり、それらがばらけると再び雲になる。別の形を作る。人と場と動物と・・・すべてが一体となっていった。

2012-03-21 09:43:50
小池博史 @koikehiroshi

「海の動物園」⑦ 批評に期待はしていないが、それにしても酷いものだと思った。多く、「読みとるのが自由だ」みたいなことしか書いていない。要は読めないということ。別に読む必要はなく、それ以上に批評の要であるポエジーで書いてみろ、と声を大にして言いたかった。対決にもならなかった。

2012-03-21 09:43:30
小池博史 @koikehiroshi

「海の動物園」⑥ 動くオブジェが一気に増えていった。この頃、多角的に動こうとして、グッズを出し始めた。「演劇」に留まりたいとは思わなかった。吉井が制作的な手腕を発揮するようにもなっていた。急激に評論家が多くやってきた。だが、味気ない批評ばかりだった。表層をさらりとなぞるだけ。

2012-03-21 09:40:57
小池博史 @koikehiroshi

「海の動物園」⑤ 全部で12ステくらいやったが、初日は客席は空っぽ。20人くらいしか客がいず真っ青だった。だが日を追う毎に増えギュウギュウになり、最終日は通路はびっしり、劇場の扉を開け放ち、椅子、机を出して段組をし劇場の外にも客席を組んだ。それでも相当数の人が入りきらなかった。

2012-03-21 09:40:04
小池博史 @koikehiroshi

「海の動物園」④ 「アレッホ」あたりから急激にマスメディアに取り上げられるようになって、みるみる観客数は増えていった。やっている方が驚いていた頃である。この頃、自分自身で見たことがないものをやりたいとは思っていたが、さほど意識することなく、次々と新しいものを打ち出せたようだ。

2012-03-21 09:36:16
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