脳の嵐(2012/04/19):ヒトとモノとカネと主体性と主体性のなさと決定論
- nokkaranoumu
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「ヒトをモノとしてしか見てない」といういい方は、「ヒトがモノでしかない」市場社会を生きてない発言だといえる。少なくとも経営者は労働力をヒトかモノかで悩むことはほとんどないだろう(契約の時以外は)。自分がヒトかモノかで悩まずに生きている奴は、俺の目からすると「保護されている」。
2012-04-19 20:21:20ヒトがヒトでいられる、モノ扱いされないような社会は、市場社会ではない。経営者と客は断じて俺をヒトだと思ってないだろうな。それはそういうものだ。だからこそヒトがヒトでいられる、モノ扱いされないような社会=家が必要なのだ。でも、それが社会のすべてではありえない。それでは何も買えん。
2012-04-19 20:25:29思えば、カネで多くの物が必要なだけ買える社会ってのは、人類が到達した偉大なる到達点ですよ。でも、カネはヒトとモノをすべて値打ちの地平線に還元するから、ヒトの尊厳とは相性はよくない。やはり「ヒトの値打ちはモノとはちょっと違う」という価値や規範を人工的に作らないとダメだ。
2012-04-19 20:31:47その規範って何かっちゅーと、「ヒトはモノでもあるが、主体なので、主体として行動してよいし、主体として行動することを踏みにじってはならない」というところになるのだと今のところ思う。多くの場合、人権とはそういうことだろう。「相手にも主体性を認める」ことが人権のコアだ。
2012-04-19 20:32:59@223tudumi 私は「世の中必然性だけで成り立っているわけじゃない、偶然の要素も大きい」とは思います。主体=判断=意識=反省も、複数の選択肢を、必ずしも法則性があるとは言えない、欲求のままであるともいえない選択をするわけですからね。だから私は決定論は採らないのです。
2012-04-19 20:42:23@nokkaranoumu なるほど。私は決定論は全体を語る場合か、分析する場合のみ可能と思います。どれだけ環境が強くとも、当人は主体を感じますから。
2012-04-19 20:48:02@223tudumi 実存主義者が偉いのは、「属性の塊が実体なのではない」と看破したからです。どんな属性持ちでも、実体は全くそれとは関係ない挙動をすることがありうる。数学だとほとんど属性=実体だが、統計学だとややブレが出てきて、生命科学や心理学だとさらにブレが大きくなる、という。
2012-04-19 20:46:32@223tudumi まー「自分のやってることを見ていて「あっやべっ」と思って訂正できちゃう」以上、決定論って意識=反省等のレベルでは成り立たないだろう、とは思います。
2012-04-19 20:49:33そして、これは当然介護や育児の際には「はたして相手はどこまで主体か」という大問題に直面する。民法は明らかに未成年者や、家庭裁判所で定める制限行為能力者を、パーフェクトな「主体」とは「みなしてない」。相手の主体性とか言ってたら介護や育児ができない局面があるように見える。
2012-04-19 20:36:04だからパターナリズムって根深い問題で、「何か相手の主体性を代理しないと問題が発生する」場合ってのが確実に存在するから、民法上の代理とかがある訳だ。これはなかったことにはできない。だが、できるだけ少ない方がいいし、最小限の主体性の侵害でなければならん。これまだ俺答え持ってない。
2012-04-19 20:37:50