ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所「リヴァイヴァル―ヨーロッパ文化における再生と革新」研究会ツダり

 早稲田大学ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所「リヴァイヴァル―ヨーロッパ文化における再生と革新」第九回研究会ツダりのまとめです。 日時:2012年4月21日(土)14時より17時30分 場所:早稲田大学戸山キャンパス39号館6階第七会議室 全体のテーマ:「リヴァイヴァル―ヨーロッパ文化における再生と革新」 続きを読む
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🌹†修道女Kartoffel†🌹 @Osayadon
ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所第九回研究会 2012年4月21日14時~ 早稲田大学戸山キャンパス39号館6階第七会議室 全体テーマ:「リヴァイヴァル―ヨーロッパ文化における再生と革新」 http://t.co/wpfujn7O
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
本日14時からです! 早稲田大学にてヨーロッパ中世・ルネサンス研究所の第9回研究会がひらかれます。「『ローマ人の皇帝』と『セルビア人の王国』:辺境からみた二つのローマ』」「シバの女王の図像的系譜:アレッツォ《聖十字架伝》への手がかりとして」http://t.co/5DqtLoF1
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ダウンロード可能です。研究会直前になってしまったけれど読む。 長沢朝代「ピエロ・デッラ・フランチェスカ作《聖十字架物語》再考 : コンスタンティヌス帝に付与された新たなイメージ」http://t.co/qmTzZ9YC
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ブログ更新。ピエロ・デッラ・フランチェスカはコンスタンティヌス帝の勝利を十字軍のプロパガンダとして描きました。従来には見られなかったこのような描き方はなぜ可能になったのでしょう。 「コンスタンティヌス帝と十字軍」http://t.co/2nQtGS53
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
大急ぎで論文読んでものすごい勢いで記事を書いて、間髪入れずに更新した。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
これをとってくる時間がなかった。無念すぎる。 唐沢晃一「中世セルビアにおける二つの国家概念について:王冠・王座・君主と法の関係」http://t.co/fzW9nya5
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
唐沢さんの発表始まりました。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
バルカンの中世歴史がご専門。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
第一のローマ、第二のローマのコンスタンティノープル。辺境がこれら2つのローマをいかにみていたか。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
なぜコンスタンティノープルがバルカンのスラブ人によって世界の中心とみなされてきたか。オボレンスキー以後の十分な考察がない。中心から周縁への文明伝播というモデルで考察。しかし周辺は単なる文明の受容者ではない。なぜ彼らはビザンツに引き寄せられたか。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
そこで10-14世紀のセルビアとブルガリアが2つのローマをどのようにながめていたのかを考察する。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
先行研究。13,14世紀のセルビアはビザンツを中心とする普遍主義的システムと地域内部での分権主義的システムの間で揺れ動いていた(ドゥシャニッチ)。セルビアの皇帝のローマ人意識は、コンスタンティノープルを中心とする普遍帝国という観念があった。そのため民族意識の芽生えは遅い。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
以上がオボレンスキー。しかしなぜ領域の皇帝からローマの皇帝という意識の変化が?
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
セルビア。1200年代前半はビザンツから離れて第1のローマに近づく。しかし半ばいこうビザンツにまた引き寄せられる。政治システムも移入。帝国への道にはいる。ビザンツの内乱に参加。領土拡大。総主教によりギリシア人の皇帝に(14世紀半ば)
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
しかしまだビザンツ皇帝になろうという意志はないか。その後、コンスタンティノープルを征服してローマ人の皇帝となろうとうする。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ビザンツが怒り、セルビアの教会を追放。セルビアの皇帝の死まで解除されず。以上が概観。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
この対立のさなかセルビアの皇帝はローマ(アヴィニョン)の教皇とはある程度良好な関係を保っている。オスマンの伸長、ビザンツの衰退のなかで教皇から有利な立場を引き出そうとするセルビア。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
セルビアのドゥシャン皇帝はセルビア人とロマニアの皇帝とギリシア語文書ではいう。スラブ語文書ではセルビア人とギリシア人の皇帝を名乗る。ロマニアとはなにか。ビザンツ帝国が支配する(あるいはかつて支配していた)土地のこと。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
10世紀のシメオンはローマ人の皇帝となのる。真のローマ皇帝になろうとした。なぜドゥシャンはロマニアとなのる?シメオンより領域的志向が強かったのではないか。10世紀とは異なり14世紀には領域王国の君主という観念が根付いていた。少なくともそのような観念を支持する集団があった。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
ビザンツの西方。いずれは支配するべき土地。ブルガリアのシメオンは西方の統治権を含めてローマ工程に人の皇帝理念を受容していた。ドゥシャンは西方概念はより領域限定的。ようはバルカン半島。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
第2のローマが世界の中心という観念は強く周辺に浸透していた。第1はさほど強いイメージを持った都市ではなかった。セルビアのドゥシャン帝はロマニアの皇帝という領域国家の理念を保持しながらも、第2のローマを占領して、実質的なローマ皇帝になろうという意志を晩年に持つにいたっった。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
しかしなぜ第2のローマなのか、またなぜ14世紀の半ばにドゥシャンは領域的皇帝を脱して普遍皇帝を志向し始めたのか。西欧中世のローマ皇帝理念との比較も必要。
Kuni Sakamoto @kunisakamoto
長沢さんの発表はじまりました。作品についてはおしておされて参照。
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