- medicineman
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@conchucame おつかれさまです.お会いできず 残念,基礎論 毎年 かなり たのしみにしているんですが,どうも 予定が かさなり ゆっくり 聞けません/先日の 話題の つづきなのだけれど,快は かならずしも 美ではないけれど,美は かならず 快である,と いうのは OK?
2010-06-14 01:17:01@shokou5 判断と経験とを分ける立場に立つと、「美⇒快」とは必ずしも言えないと思います。つまり「この作品は美しいとされてて俺もそれは認めるけど、でも観ててつまんねーよ」、という発言はありえそうだからです。つまり「美と判断してても快を経験してない場合」はありえそうだな、と。
2010-06-14 01:29:55なるほど たしかに. QT @conchucame: 判断と経験とを分ける立場に立つと、「美⇒快」とは必ずしも言えない...「この作品は美しいとされてて俺もそれは認めるけど、でも観ててつまんねーよ」...つまり「美と判断してても快を経験してない場合」はありえそうだな、と。
2010-06-14 11:06:47ただ,ぼくの 場合,さきほどの 発言は 「この作品は世間では美しいとされていることは俺も認めるけど,でも "俺は美しいと思わないから" 観ててつまんねーよ」 に 翻訳されるんですよね.美という 客観的対象が 存在するか どうかの 立場の ちがいですかね. @conchucame
2010-06-14 11:18:57@shokou5 まぁ快と不快が入り交じった状態を考えるならば、「美を知覚してる点では快なんだけど、高飛車なとこへの嫌悪感が不快」とか言えるかもしれないですけど、僕は「快と不快が入り交じった状況」というのはよくわからないので、あまりそういうケースはあまり想定したくないです。
2010-06-14 11:40:00@shokou5 とにかく、僕はエビちゃんは美しいと思いますけど見ててイラっとくるわけです。理由は不明。
2010-06-14 11:47:18納得です. QT @conchucame: 「たしかにあの人すごい綺麗だけど、あの高飛車な感じがあまり好きじゃないんだよね!」...要は「対象の美しさを見て取ることは体験の一要素でしかなく、それは必ずしも体験全体を快にするわけではない」というのが、僕の言いたかったことなのでした。
2010-06-14 11:51:00.@conchucame 認知神経科学的には,おそらく 美に対する 快と 高飛車に対する 不快とが 別個に 算出され,それが おもみづけ可算されるなりした 和が,最終的な 統合された 経験として 意識に あがってくると かんがえるのだと おもいます.
2010-06-14 11:53:51同意です.そして 文化的に 共有された レベルでは 「美=快」は たしかに かならずしも なりたたないですね. RT @conchucame: 「文化的に共有される」という意味では美に客観性を認めますが、「人間が存在しなくても美が存在する」という意味での客観性は認めない立場です。
2010-06-14 11:55:28@shokou5 なんか色々と考えた結果、快と不快が入り交じるのはアリなんじゃないかなと思い直しつつあります。パワハラを受けながら上司に肩を揉まれるケースとか。
2010-06-14 11:57:23@at_akada よくわかんないですね。微妙なところです。あの種の美しさにはイラッと来る要素が内在的に含まれてる気もします。
2010-06-14 11:58:39.@conchucame @at_akada @shinimai ただ 文化的に 共有される 前段階に 「美=快」となる 個人の レベルが 先だつのではないかと おもいます.
2010-06-14 11:58:42言葉を整理したほうがいいです。美しいってのは評決的な意味なのか実質的ないみなのか、はっきりさせないと議論はできないです。
2010-06-14 12:00:40.@conchcame ええとね、わたしそれ、客観性を認めたら、「人間がいなくても美しい」も認めないといけないんじゃないかと思ってるんだよね。@shokou5 @shinimai
2010-06-14 12:10:46@at_akada 僕は「美は人間と対象との間に成り立つ関係的性質のようなもの」と考ているので、「人間がいなくなると美は成り立たない」と考えてます。ダメかな?
2010-06-14 12:15:13なんどもいうが人間にたいする評価は美的なものにかぎらず、倫理的、経済的、さまざまなものあるから、嫌だっていろんな意味あるって
2010-06-14 12:16:54ここでも サールに したがい,存在論的主観性と認識論的主観性を区別することが役に たつことと おもわれます.美は対象を認識する主体を必要とする,存在論的に主観的な概念ですが,「ある ひと が A を うつくしいと おもっているかどうか」は客観的に認識可能では. @at_akada
2010-06-14 12:17:36そこから 捨象すれば,たしかに 人間が ほろんだ 世界にも,たとえば,「ルネッサンス期に 美と されたであろう 存在」を 同定することは 可能でしょう.
2010-06-14 12:19:47