若槻礼次郎に関する考察

@NaoyaSugitani 氏による、 第一次若槻内閣期の党運営と解散回避をめぐる若干の考察
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@NaoyaSugitani

今ずっと思い悩んでいるのは「歴史人物の評価」と「客観性」について。これを深刻に考えるようになったのは奈良岡聰智氏の一連の研究を読み始めてから。氏は加藤高明を大絶賛する一方で、後継の若槻礼次郎や浜口雄幸については辛辣な評価を下している。私はこれに触れた時言い知れぬ違和感を覚えた。

2012-04-24 19:34:33
@NaoyaSugitani

私は島根に来てから、若槻礼次郎に最初に興味を持ち始めた。調べていくうちに櫻内幸雄、俵孫一・木村小左衛門といった島根出身の代議士にも深い関心を抱くようになった。だが一方で(これは某教授も言われたが)人物評伝から入るのは邪道であるという認識を常備し、可能な限り客観性を意識してきた。

2012-04-24 19:36:55
@NaoyaSugitani

勿論政党政治と政治家だけでなく、戦争や軍部、台湾・思想等勉強してみたいテーマは山のようにある。その中で卒論では腰を据えて向かい合えるテーマとして地域と政党の観点から立憲民政党と島根県を取り上げた。これをたたき台にして今後も何らかの展開が出来たらと思っている。

2012-04-24 19:39:04
@NaoyaSugitani

だが親近感というか、好悪の情はどうしても沸いてしまう。自分の関心のある人物について何か言われているとどうしても一言物申したくなる。それは、好き嫌いなどではなく単純な違和感や感想からくるものであってほしいのだが、実際は情から来ている部分が大半だろう。

2012-04-24 19:40:49
@NaoyaSugitani

正直政党政治だけに拘泥され続けるのもいかがなものかと思っているし、一人の歴史人物を中心に評伝を書き、通説を再検討するのはもっと研究実績を積み重ねた上で、と思っている。だから、先行研究の取り上げる人物評に拘泥されている時間は無い筈なのだが、どうしても拘りたくなる自分がいる。

2012-04-24 19:42:12
@NaoyaSugitani

理性的に、あくまで客観性を持って歴史を取り上げたいという自分と単純な興味と好悪の情に訴えたい自分の板挟み。勿論望ましいのは前者だし、自分の実力的に考えてもまだ後者で完成された評伝を書くのは出来ない。だがどうしても後者の自分を殺しきることが出来ずにいる訳で。非常に困っている。

2012-04-24 19:43:41
@NaoyaSugitani

しょうがないので今日一日作業の合間を縫って考えてみたことを今から論じたい。テーマは「第一次若槻内閣期の党運営と解散回避をめぐる若干の考察」

2012-04-24 19:44:37
@NaoyaSugitani

奈良岡氏は新進気鋭の学者であり、氏の加藤高明についての研究成果は目を見張るものがある。しかしながら、氏はしばしば必要以上に加藤を評価し、反面で他の政治家を過小評価する傾向にあると思われる(主観)。その最たる例の一つが若槻礼次郎だろう。確かに彼の党運営には問題があった。

2012-04-24 19:46:00
@NaoyaSugitani

寧ろ問題だったのは加藤急死という急転直下の事態の中、担ぎ出された若槻には党運営を満足に調整する時間も余裕も無かった。憲政会が加藤個人の力によってまとまっていたことは、氏が既に証明しているが、それは憲政会が加藤の憲政会であったことに他ならない。

2012-04-24 19:48:52
@NaoyaSugitani

若槻の指導力に相当の問題があったことは既に奈良岡氏の明らかにするところである。党運営の混迷は、若槻の指導力不足と同時に加藤亡き後の憲政会が大きく動揺し、加藤に代われる人物がいなかったことに起因している。これは憲政会の構造上の問題であり、若槻でなくとも党運営は難しかっただろう。

2012-04-24 19:50:18
@NaoyaSugitani

党の有力なスポンサーだった仙石貢が党を離脱した件について、若槻の不徳を非難している氏だが、これはむしろ加藤とその個人的ネットワークに依存していた憲政会の脆弱な財源という弱点が露呈した結果だろう。憲政会は与党でありながらほぼ加藤の実力によって成り立っており、党としては不完全だった。

2012-04-24 19:52:16
@NaoyaSugitani

党運営が混乱をきたした背景には、加藤という強力な総裁を失った途端瞬く間にネットワークが崩れ、加藤に代われる人材がいなかったという点にある。若槻が失敗の政治家という認識を持たれているのは、彼がピンチヒッターとして登板したという点も大きい。これは後の民政党でも繰り返された。

2012-04-24 19:54:18
@NaoyaSugitani

民政党は浜口中心主義の下で党人派と党外人がまとまっていたが、浜口が退場した途端その協調関係は一気に崩壊した。若槻は二度とも与党のうちに総裁になっているが、政務をしつつ党を取りまとめるのは不可能に近い作業だった。これは若槻の指導力不足だけでなく、憲政会・民政党の構造上の問題だった。

2012-04-24 19:56:14
@NaoyaSugitani

元来若槻は自分の派閥を持たない貴族院議員だった。その為党に確固たる地盤がある訳ではない。そもそも加藤・浜口とは全く性格を異にした政治家であり、元から代理を務める等不可能だった。彼がもし下野中に総裁になったならば、着実に党の基盤を固めて盤石な党体制を築き上げたかもしれないのだ。

2012-04-24 19:58:16
@NaoyaSugitani

だがそのような余裕は若槻には無かった。彼にとっての不運は、そうした党運営と政務という困難な作業を同時進行でこなさねばならないことだった。これは、指導力不足だけではなく、元から不可能に近いことだったと言えるのではないか。その点で考えると若槻の政治的命運は不幸なものだった。

2012-04-24 19:59:33
@NaoyaSugitani

また第一次内閣期の解散回避について、これが実施されていればイギリス流の二大政党が定着していた可能性があった、というのが大方の見解だ。だが果してそうだろうか。そもそも彼が解散しなかったのは憲政会が多数党にはなれないとの予測があったからと資金不足の問題があった。

2012-04-24 20:00:42
@NaoyaSugitani

もしあそこで解散した場合、確かに二大政党制への一歩は踏み出せたかもしれない。だが政友会と政友本党の連携がもし達成されたなら、憲政会は間違いなく第二党に転落しただろう(奈良岡氏の解散のタイミングを見誤らなければ憲政会は勝利できたかもしれないという推測には少々難がある)。

2012-04-24 20:02:59
@NaoyaSugitani

第二党になった場合なにが起きるか。まず若槻総裁が辞任することになる。それは憲政会の更なる混乱を招いただろう。下手をすれば憲政会は55年体制期の社会党のような万年野党に転落した可能性すらあったのだ(それほどに政友会の勢力は健在だった)。苦節十年を乗り越えた若槻にこの悪夢がよぎった。

2012-04-24 20:04:59
@NaoyaSugitani

彼が解散に踏み切らなかった要因の一つに、間違いなく加藤高明がようやく手にした第一党の座を手放すのは不可能だ、という心情があった。彼も当初は解散を企図しただろうが、政友会・政友本党の連合に勝てる見込みは薄い(解散総選挙を何回か行うという案もあるが、資金的に非現実的)。

2012-04-24 20:06:46
@NaoyaSugitani

結果として彼は妥協に走った。だが、これは失敗だった。まず党員に伝えず秘密裏に行ったことは党員の失望を招いた。更に知識人やジャーナリズムからも非難が飛び交った。この妥協で政治を切り抜けるというのは戦前政党政治の貴重な経験だったのだが、ここで使われたことでの後の妥協を不可能にした。

2012-04-24 20:08:23
@NaoyaSugitani

彼は水面下での交渉に集中しており、対外には解散をちらつかせるという表で対決、裏で妥協という戦法をとった。だが彼に欠いていたのは輿論の動向だった。この解散回避は政党の延命という非難を浴び、結果として政党政治そのものの基盤をも弱めてしまったのだ(奈良岡氏、粟屋憲太郎氏らの研究)。

2012-04-24 20:10:05
@NaoyaSugitani

皮肉にも若槻は尊敬する桂と同じ世論の動向を見誤るという失敗をした。若槻にとって致命的だったのは、彼が世論によって成立する政党の出身だったという点だ。若槻は世論の解散への声を十分に理解できなかった点で、間違いなく政党政治家としては失格だった。そのことは何よりも本人が自覚していた。

2012-04-24 20:11:51
@NaoyaSugitani

結局大蔵省から貴族院議員になった彼にとっては世論や世間というのは縁遠いものだった。だが経緯はどうあれ政党政治家になった以上、党員やその他の対外の目を意識することは不可欠だったが、彼にはそのセンスがまだ備わっていなかった。それは若槻礼次郎の限界でもあった。

2012-04-24 20:13:04
@NaoyaSugitani

民政党結成時、総裁に若槻を推す声もあったが彼は「私の出る幕ではない」と固辞した。彼は既に自分が失策を犯し、表舞台にいる資格の無い人間であることを自覚していたと思われる。その後のロンドン条約と第二次内閣成立時も、彼は当初断固固辞した。彼が表舞台に上がるのには、周りの声が必要だった。

2012-04-24 20:15:21
@NaoyaSugitani

妥協政治家、というと聞こえは悪いが、そんな若槻にとって晴れ舞台だったのがロンドン条約だった。ギリギリのところで交渉をまとめたことは確かに彼の業績だった。彼の交渉と妥協の戦術は外交の舞台で光ったのである。だがそれすらも挙国一致の気運の中で否定されてしまった。

2012-04-24 20:16:53