2010年6月15日

電気自動車と共に(2) by @Hirokazu_Hirano

@Hirokazu_Hirano さんのEV関連tweetを @artmas01 が勝手にまとめさせていただきました。 第1弾は http://togetter.com/li/25318
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平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

「電気自動車と共に 1992年〜1994年」   #EV

2010-06-09 06:22:04
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

ビッグ3との標準化協調の舞台裏 「齟齬」

2010-06-09 06:26:45
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

92年から、94年の電気自動車の自分史について、又書き始めることにする。この時期は、標準化と、カリフォルニア州向けの電気自動車の戦略、新しい電気自動車のコンセプトメーキングにほとんどの時間を使った。

2010-06-09 06:27:09
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

標準化のバリヤであった急速充電は、前にもつぶやいたように、ミニ公聴会で乗り越えることができた。しかし、障害はまだまだあった。そこには一つの企業の問題ではなく、日本の自動車会社とアメリカとの本質的な問題が横たわっていた。

2010-06-09 06:27:56
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

この標準化の話は、本にも、ホームページにも書いたことがある。そこには、結果的に日米協調の元で、標準ができたハッピーエンドの話を書いてある。書いたことは事実である。しかし、真実の常として、表面に現れる明るい部分と、地下にもぐった暗い部分がある。

2010-06-09 06:28:52
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

80年代から90年代前半は、日本経済の伸張に伴って、日米間の経済問題が深刻化した時代である。特に自動車は、日米自動車戦争という言葉が使われるほど厳しい状況の中にあった。この日米の経済問題は私の担当ではなかったが、電気自動車も米国の企業、国民感情の波を受けた。

2010-06-09 06:29:20
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

当時デトロイトは疲弊し、犯罪率は全米でトップクラスに上がっていた。特に郊外のフリントでは、GMが複数の工場を閉鎖したため、最悪の状態になっていた。この街の出身の映画監督マイケル・ムーアが「ロジャーと私」でフリントのドキュメンタリ映画を作って監督デビュしたのもこのころだ。

2010-06-09 06:30:18
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

この、矛先は日本に向けられていた。数多くの保護主義的な政策が十分な功を奏せず、怒りは市民レベルまで達していた。店の駐車場で中古の日本車を、客にハンマーで壊させるという、客寄せをやっていた時期である。この中で電気自動車はアメリカの自動車復活の希望の星のように思われていた。

2010-06-09 06:31:36
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

このため、電気自動車に対して、数々の競争的な国策が取られて来た。バッテリ開発のための外国企業を排除したUSABC、そしてUSCARという独禁法を超越したコンソシアムが作られたのはこの時期だ。

2010-06-09 06:32:29
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

連邦議会に電気自動車の関係の委員会があったので、傍聴に行ったことがある。ビッグ3の電気自動車のプロジェクトマネージャが証言していた。議長の挑発的な質問に対して、GMは直接的な答えを避けた。

2010-06-09 06:33:45
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

すると、議長が畳み掛けて、「質問が具体的でなくて悪かった。これだけ金を出せば、○○○位ならつぶせるのか。」と言った。耳を疑った。国会議員が、議会で他国の企業をつぶせるのかと聞いたのだ。

2010-06-09 06:35:07
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

日本の自動車メーカはこういう政治状況、世論の中で電気自動車の日米標準化ということをやらなければいけなかった。

2010-06-09 06:50:57
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

最初のSAE標準化の委員会は、悲惨だった。米国企業の一人が日本企業のいるところでは、話ができないといい始めた。 

2010-06-09 06:51:49
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

国際組織であるSAE Internationalが、米国外の会員を排除するということは、自由と平等を原則としている米国において、正当でかつ必然性がなければできない。第1回目の委員会は排除するならば裁判だということ論議になってしまった。

2010-06-09 06:51:54
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

第2回目の委員会が招集された。SAEの中で論議が行われたようだった。会議は、議長の「SAEのドアは全てのメンバーに対して開かれている」という話で始まった。

2010-06-09 06:52:59
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

これで、SAE標準化委員会への参加という2つ目のバリヤは、米国の自動車メーカのエンジニアと、SAEの公正な判断で乗り超えることができた。

2010-06-09 06:54:24
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

標準化のビッグ3との協調の舞台裏 「協調のために」#EV

2010-06-09 06:55:19
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

最終的には、日米の標準化のための交渉は、懸案の充電に関しては、SAE-JEVA会議という日米の自動車メーカを主体とした会議体で、ドラフト作りの作業が進められることになった。他の標準化、バッテリ、走行試験方法などは前述のSAEの委員会で行われることになった。

2010-06-09 06:55:44
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

しかしながら、SAE-JAVA会議体に持っていくまでの道程は簡単ではなかった。日米の自動車メーカ間の個別の交渉が、複雑に絡み合っている。各社が自社の考え方で個別に他のメーカと交渉を行う。多くの伏線が行きかう中で、全員が集まった会議体にたどり着いた

2010-06-09 07:16:40
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

背景には、自動車会社が基本的に標準化というものに慣れていなかったことがある。数少ない企業が市場で熾烈な戦いをするのが、自動車という産業の特徴である。日米間だけではない。Big3間、日本の企業どおしも協調とは程遠い関係である。

2010-06-09 07:17:13
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

電気製品のようにふたを開けてみると競合会社の部品だらけというのとは違っている

2010-06-09 07:17:20
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

最近は企業間のOEM取引とか、部品の共有化などが行われるようになったが、当時では競争領域で話し合いをするということは至難の業だった。

2010-06-09 07:17:40
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

この結果、第1回目のSAE-JEVA会議はとんでもない形で、幕を開けることになった。自動車各社は日本から開発のトップの役員を呼んでいた。出席者は各社3名の少人数に絞った。万全の体制のはずだった。

2010-06-09 07:17:58
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

しかし、アジェンダは当日になって変更された。場所も突然USCARというコンソシアムの会議場に変更された。しかも会議体の名前もSAE-JEVAという横断幕に変わった。

2010-06-09 07:18:15
平野 宏和 @Hirokazu_Hirano

いかに、自動車会社間がうまくいっていないかの表れであった。標準化とか、部品を共有化できないかのつもりだったが、直前にホストになった会社が、マーケットシェアーの90%を占めてしまう企業の会合である事に気がついた。

2010-06-09 07:18:38
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