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@YOW_
"中原佑介によるサイバネティックス批判と美術批評への転身 " http://t.co/PxYLvn0F 誰か読んで
あたしか @wakarimi075
意図はわかるけど、これは誤認も甚だしくなイカ(´Д`) RT @YOW_: "中原佑介によるサイバネティックス批判と美術批評への転身 " http://t.co/dQmLRaqQ 誰か読んで
@YOW_
@atashika_ymyh 誰か読んで、中原祐介検証ととげったーへの批判を求む、
あたしか @wakarimi075
――中原佑介にしても岡本太郎にしても、彼らの「反核」が「原子力の平和利用推進」と表裏一体であったことはきちんと押さえておく必要があるでしょうに(^^;→ http://t.co/glRoRndW
Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya
中原佑介は原子力の問題をどう考えていたか。原爆に批判的であったことは確かだ。中原佑介美術批評選集第3巻月報で粟田大輔さんが触れているように、中原は、大学時代に原爆反対運動をしていた。 http://t.co/4Qf9KqJ9
Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya
そもそも、中原の指導教官であった湯川秀樹自身、原水禁運動に関わっていた(原水爆禁止署名運動全国協議会代表世話人を務めた)。ただ、中原が原子力(の平和利用)についてどう考えていたかはよく分からない。
Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya
美術批評選集第1巻の解題には書かなかったが、中原佑介が「創造のための批評」でサイバネティックスに言及したのは、ノーバート・ウイーナーの『人間機械論』の翻訳(1954年)をはじめ、サイバネティックス関係の本が何冊かみすず書房からちょうど刊行されたことを背景としていると私は思う。
Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya
「人間機械」という問題は、その後の『ナンセンスの美学』のティンゲリー論で展開されるなど、「物質」や「ナンセンス」とともに中原の主要な問題関心を形成した。サイバネティックスは、「創造のための批評」では美術批評の引き立て役になっているが、その後も興味の対象であり続けたのではないか。
Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya
美術と原子力で言うと、日本美術会の月刊誌『BBBB』(ヨンビィ)に「原子力時代と美術」という座談会がある(1950年2月号)。本郷新の司会のもと、岡本太郎、鶴岡政男、斎藤義重、吉井忠、林文雄、吉岡憲が一堂に会するのだが、残念ながら、議論はそれほど実りあるものではなかった。
あたしか @wakarimi075
@YOW_ 手許に中原佑介の本がないので総説的な感じになりますが、これからちょっと連ツイします
あたしか @wakarimi075
昨日も取り上げたこれについてもう少し→中原佑介によるサイバネティックス批判と美術批評への転身 http://t.co/JnsoXDRt
あたしか @wakarimi075
→当方中原佑介についてはそんなに読んでいるわけではないので、ここであげられていることが事実なのかどうかについては詳らかにしないのですが、しかし椹木氏のこれまでの反原発な物言いと重ね合わせてみると、ここには単なる事実誤認以上の何かが存在するのではないか→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→既にスガ秀実『反原発の思想史』をはじめいくつかの文献で指摘されていることですが、50年代の反核運動は「原子力の平和利用」推進と表裏一体であり、それは別に中曽根や正力をわざわざ持ち出さなくても、ことの最初からそうだったと言わなければならない→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→中原佑介にしても岡本太郎にしても、あるいは氏が新たに持ち出してきた武谷三男にしても、50年代~60年代前半の思想圏の内部にいた人たちであり、彼らが反核運動にコミットしていたからといって、それは即反原発とはつながらないわけですね。→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→吉本隆明流に言うと、反核と反原発は「逆立」している。それがあたかも一直線上に(発展段階論的に?)並べられるというところに、こう言ってはなんですが、一種の詐術のようなものが見え隠れしているように、個人的には見えることしきりなわけで(^^;→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→詐術は言い過ぎでした。反原発を言い募る市民=プチブルリア充たちの自我理想に沿った歴史観の素直な表出と言うべきでしたw→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→反核が市民=プチブルリア充たちの公理であるとすると、反原発は反市民=人民・マルチチュードの公理である。けれども実際、現下において進行しているのは、反原発もまたプチブルリア充の公理に支配されているという現実であり、→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→従って「反核」のパラダイム内の人物であった中原佑介(や岡本太郎、武谷三男etc)を「反原発」の人物として取り上げるのは、まさに「奪用」であり、しかも反原発の反市民的な性格を隠蔽することにしかならないのではないか。ずいぶんとタチの悪い「奪用」ですな(^^;→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→中原佑介にしても岡本太郎にしても、あるいは氏が新たに持ち出してきた武谷三男にしても、50年代~60年代前半の思想圏の内部にいた人たちであり、彼らが反核運動にコミットしていたからといって、それは即反原発とはつながらないわけですね。→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→反原発の反市民的な潜在性を隠蔽することで、市民=プチブルリア充たちは安心してデマを撒き散らし、「放射脳」として振る舞うことができ、電力会社の節電要請に逆ギレし、クリーンエネルギー幻想に入り浸ることができるwww→ #放射脳
あたしか @wakarimi075
→プチブルリア充たちの「反原発」は、結局は「第三の道」=新自由主義に逢着せざるを得ないわけで、なんだこの堂々巡り、という(そう言えば菅前首相も「第三の道」論者でした) #放射脳
あたしか @wakarimi075
《原発問題とはエネルギーの問題でもなければましてや“安全性”の問題でもない。原発を作り続けるという、戦争やアポロ計画に匹敵する浪費の中で体制の延命、再編をやりとげるという問題なのだ》――かつて津村喬はこう言ってましたが、現在、原発問題をこう言い切れるかどうかが重要 #放射脳
@YOW_
反原発と反核運動のそもそもの違いについて私も無知だったのだが。そこでなく、さわらぎさんの"中原佑介が一貫して美術館という力学的な「箱」ではなく、量子論的な「場」に可能性を見出し"といった物言いで、まともに読む気を失わされる。
@YOW_
放射脳という呼称は、私はなんとなく使いたくない。うーんなんとなくだが。
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