印刷された美術(写真以降) 草稿
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世界中の名画・名作と呼ばれるものをもう数えられないほど見たけど、ほとんどは現物じゃなくて写真で見ている。世界中のほとんどの美術愛好家たちもそうだろう。でも、写真と実物では与える印象は全く違う。では、今の世界で愛されている美術とは何なのだろうか。
2012-05-05 00:12:02日本で西洋美術史研究が始まった時、日本には西洋の美術品がほとんどなかった。研究者は美術品の写真や印刷物を集めて研究した。写真を集めて台紙に貼るのが文化行政の大事業だった。その現物はまだ(おそらく上野のどこかに)保管されている。
2012-05-05 00:29:15先日慶應義塾でグーテンベルク聖書が展示されていた。印刷術が文献・思想の流布に革命的な影響を与えたのは知られているが、なぜか美術史の中では、複製技術の与えた影響についてあまり表立って述べられる事がない。特に19世紀の写真印刷が与えた影響に関しては。
2012-05-05 00:44:4119世紀に生まれた写真技術、印刷技術は美術雑誌と美術大全集に結びつく。それ以前には、名画は実物を見るか、模写を見るかしかなかった。当然世界規模で美術史を論じることも、一般人が地元や旅先以外で美術に触れることもほとんどなかった。つまり、外国の美術を見ることはほとんどなかった。
2012-05-05 01:00:02つまり図版イメージによる世界規模の美術史の編纂も、それに接する機会も、極めて近代的な事象であるということだ。美術の知識は各人の記憶ではなく、大量の写真に蓄えられることになる。美術を「見る」形が決定的に変わった。むしろ、写真図版が現在あるような美術が生んだとすら言える。
2012-05-05 01:35:32ここから、画家の仕事の起源を、才能や、描く作業や、時代背景や、絵画形式ではなく、「見ること」に求めることが可能となる。世界共通の美術史、図版による美術史、ミニチュアによる、虫眼鏡による、紙や液晶による、テレビ画面による、美術と、世界を巡回する実物とが対になって成立する美術。
2012-05-05 01:53:13ということを考え始めたのは、絵を見て、それをどんな風に撮影しても、自分が見ているような感覚には到底近づかないという、伝達上の煩悶からだ。絵と写真では絶対的に体験の性質が違っているのに、あたかもそれが等価交換可能であるかのように扱われ、そこから美術史が語られている違和感。
2012-05-05 02:05:27マネは若き日のスペイン旅行と19世紀のパリだけでできているわけではない。構図の援用、ポーズの援用は印刷物があったからこそだ。特に構図研究は縮小図版なくしては成立しないだろう。冊子をパラパラ捲ることで、それへのリアクションとなることが、近現代美術の辿った道だった。
2012-05-05 02:17:14ユベール・ロベールはローマで遺跡を写生し、その写生をフランスに持ち帰って、それを組み合わせてタブローを描いた。(勿論写真発明前なので)写真ではなく写生による、記憶と経験と知識による援用、反復。ここでは写生していない時代を援用することはできない。時間、歴史が全く別の性質で作用する。
2012-05-05 02:43:41このような近現代美術では、作者の肉体的な死と、作品の物質的な生存が、芸術理念の永遠性を築き上げる。あらゆる作者は死を前提としており、それに対して作品の不滅、流布が保証されることで、美術(もしくは美術作品)は一過性ではない、全歴史との交流を可能としたのだ。まさに刻印・印刷された美術
2012-05-05 03:17:42フェリックス・ゴンザレス・トレスが近代美術の一つの結節点となっている。作者の死と作品の不死、(物質的な面でも、観念の面でも、社会性の面でも)。印刷と流布、永遠(無限)の反復。おわり。
2012-05-05 03:56:42